ヘルマン・ゲーリング
ドイツの陸軍・空軍軍人、政治家
ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング(Hermann Wilhelm Göring、1893年‐1946年)は、ドイツの政治家、軍人。ナチ党政権下のドイツにおいて、ヒトラーの後継者に指名されるなど高い政治的地位を占めた。国会議長、プロイセン州首相、航空相、ドイツ空軍総司令官、四ヵ年計画全権責任者、ドイツ経済相などを歴任。軍における最終階級は全ドイツ軍で最高位の国家元帥 (Reichsmarschall) である。
ゲーリング自身の発言
編集ヒトラーについて
編集- 「彼(ヒトラー)の姿を見、声を聞いた最初の瞬間から、私はぞっこん参ってしまった。」(1924年)[1]
- 「私に良心などない。私の良心は、その名をアドルフ・ヒトラーという。」[2]
- 「恐ろしいことだ…。ヒトラーは気が狂った。」(1939年9月、ポーランド侵攻を起こして英仏と再度戦争状態になってしまったことについて。友人パウル・ピリ・ケルナーに語った言葉)[3]
- 「私も(ヒトラーに言うべきことを言うことを)ずいぶん努力してはいるのだが、ヒトラーの前に出るといつも、私はすっかりおじけづいてしまう…。」(ヒャルマル・シャハトに語った言葉)[4]
- 「1938年の自動車事故でヒトラーが死んでいたらずっとよかったんだが…。そうすれば偉大なドイツ人として最期を迎えられただろうに…。」(大戦末期、後妻エミーに漏らした言葉)[5]
- 「ヒトラーは死んだよ。エミー。これでもう私は最後まで忠実だったと彼に伝えることはできなくなったのだ。」(ヒトラーの自殺後、後妻エミーに漏らした言葉)[6]
- 「総統に対する私の敬愛の念をことさら強調したいわけではないんだが、総統が最後に私をどう処遇されたかはキミも知っての通りだ。だが、彼は死ぬ前の一年間ほど、すべてをヒムラーに任せっきりにしてしまったんだと私は考えているんだ。」(ニュルンベルク裁判の際、心理分析官グスタフ・ギルバートに対して)[7]
- 「ヒトラーが射殺命令を出したとは思っていませんよ。あの薄汚い豚野郎のボルマンの仕業なんです。妻が私に影響を与えられることは色々とあるだろうが、私の基本的な行動規範まではどうかね。何があっても私は変わらんよ。男の世界の話だからな。女にはわからんさ。」(「貴方の奥さんは娘エッダにまで射殺命令を出したヒトラーへ忠誠を誓うのを止めさせたいと言っていましたが。」と述べたギルバートに対して)[8]
- 「忠誠の誓いをたてたからには、それを破ることはできない。(中略)一度試してみたまえ。12年間皇太子の役を演じることを。常に王に忠誠を捧げ、王の進める政治活動の多くに同意できないままに、しかし反対することもできず、その状況から最善のことをしなければならないということを。」(グスタフ・ギルバートに語った言葉)[9]
- 「たしかに、長い年月の間には、(ヒトラーの方針に)色々と承服できないこともあった。しかし1941年以降、ヒトラーには公の場以外ではほとんど会わなくなった。残虐行為があったとすれば、命じたのはヒムラーとゲッベルスに違いない。言っておくが、私は残虐行為が技術的に不可能だと思うし、可能だとしても、命じたのがヒトラーだとは思わない。ヒトラーの最期で一つだけ笑わせるのは、エヴァ・ブラウンとの感傷的な結婚式だ。御涙頂戴で芝居がかっており、いささかやり過ぎだ。あんなことは、やらずに済ませられただろうに。」(1946年5月27日、「ヒトラーに何か賛成できなかった点は?」という質問の答え)[10]
- 「ドイツ国民はヒトラーのことを『我が総統』と呼び、私のことは『ヘルマン』と呼んだ。私は常にヒトラーより国民の心に近かったのだが、ヒトラーは偉大な指導者であるから、私は全面的に彼の計画に賛同した。ヒトラーは偉大な男ではあるが、ゲッベルスのような一部の部下に裏切られて、しまいには本当の友と偽りの友の区別がつかなくなってしまった。このことを私はキミに、そして世界に知らせたい。」(1946年5月28日)[11]
ユダヤ人について
編集- 「私はウィーン市に直言したい。今日ウィーン市はドイツ人の都市と呼ぶに値しない。三十万人のユダヤ人が住んでいる都市がどうしてドイツ人の都市と言えようか。この都市は経済並びに文化の面で重要なドイツとしての使命を負っている。我々はこの二つの分野において、ユダヤ人の手を借りることは許されないのだ。ユダヤ人は一つのことをはっきりと理解すべきである。それは国外に退去しなければならないということである。」(オーストリア併合後の1938年3月23日、ウィーンでの演説)[12]
- 「ドイツのユダヤ人全体には、醜悪な犯罪の罰として十億マルクの負担金が課される。遅滞があってはならない。ユダヤの豚どもに二度目の殺人(“一度目”はエルンスト・フォム・ラート殺害のこと)をやらせてはならない。私はふたたび断言する。ドイツには一人のユダヤ人もいてほしくないと!」(1938年11月12日、水晶の夜事件の事件処理のための会議の席上での発言)[13]
- 「私としては貴重な品物を壊されるぐらいなら、ユダヤ人を200人ほど殺してくれた方が良かったのだが。」(同上)[14][15][16]
- 「先の1939年1月24日の指令で貴官に、移住と疎開という形で、時局に即した最も有利なユダヤ人問題の解決を図る任務をゆだねたが、これに追加して、私はここにヨーロッパのドイツ勢力圏におけるユダヤ人問題の全体的解決のため、必要なあらゆる組織的・実際的・物質的準備を行うことを、貴官に委任する。他の行政機関の権限に触れるときには、これらと協議しなければならない。さらに貴官に対して、ユダヤ人問題の最終解決を実行するための組織的・実際的・物質的措置に関する全体的計画を、早急に私のところに送るよう要請する。」(1941年7月31日、ラインハルト・ハイドリヒに「ユダヤ人問題の最終的解決」を委任した文書の文章。ハイドリヒがユダヤ人絶滅にリーダーシップを取る根拠となった。ただしこの文書の文言はハイドリヒの国家保安本部で作成され、ゲーリングは署名しただけであるという。)[17]
- 「ドイツ支配地域にユダヤ人がもはや居場所を見出してはならない。」(1941年8月)[18]
- 「ユダヤ人大虐殺について、私は実際に何も知らなかった。1943年以降、ユダヤ人に多くの犠牲者が出たことは報告されたが、私は報告者にあまり外国のプロパガンダ報道を聞くなと注意していた。200人とか2000人が殺されたという報道なら、私も場合によっては信じたかもしれない。だが数百万人が殺されたなどという報道は、私には全くあり得ないことのように思えた。」(1946年1月、ニュルンベルク裁判での拘禁中に)[19]
- 「その演説(ニュルンベルク裁判で取り上げられたゲーリングの反ユダヤ演説)をしたのはゲッベルスと会話した後のことだ。閣僚が7、8人いる中でゲッベルスがヒトラーにあの男はユダヤ人をかばっていると讒言して私を挑発してきたのだ。その後私は様々な反ユダヤ計画を実行するよう命じられた。私の演説はそういう流れで出てきたものだ。それに法廷で読み上げられる箇所は私にとって不利なものだけだ。良い個所はすべて削除されていた。たとえば、ユダヤ人を餓死させるわけにはいかないと言ってる部分だ。この部分は法廷で読み上げられなかった。漠然とした反ユダヤ感情は全ドイツ国民が持たねばならなかった。ヒトラーの命令だった。」(1946年5月24日、法廷で取り上げられた反ユダヤ演説について聞かれて)[20]
- 「1933年以前ユダヤ人にも非難されるべき点があった。一例をあげれば彼らは私個人に対してかなり無礼な言葉を使った。私の演説などユダヤ人が我々について言った言葉に比べればおとなしいものだ。連中はとてつもない嘘を吐き、汚い言葉を吐き、他人を誹謗中傷する。最初私はユダヤ系の新聞に書かれていた反ナチ運動を深刻には受け止めていなかったが、その運動が拡大して過激になっていくのを見て、こちらも対抗してそれまでより激しい表現を使うことを余儀なくされたのだ。しかし人を拷問するとか、絶滅させるとかは私の性に合わない。」(1946年5月24日)[21]
- 「私が反ユダヤ主義者だったことは一度もない。私の人生は反ユダヤ主義とは無縁だ。ナチ党が反ユダヤ主義だけの政党だったら、私は関心を持たなかっただろう。私がナチ党に惹かれたのは、強大なドイツを作り、ヴェルサイユ条約を打破するという主張だ。もちろん入党すれば、反ユダヤ主義も含めて党の綱領すべてに従わねばならなかった。なぜ私が反ユダヤ主義に反対しなかったのか、その答えは単純ではない。当時のドイツでは一般に、ヒトラーが成功するためには反ユダヤ的綱領を遂行する必要があると考えられていたからだ。ただ彼があれほど稚拙に反ユダヤ主義を遂行しなければ、我々の外交政策の多くはもっと成功していただろう。それは私も認めよう。彼にはこのことをたびたび注意した。こんなことを言うと馬鹿げて聞こえるのは分かっている。反ユダヤ主義演説を行い、500万人のユダヤ人を虐殺した政権のナンバーツーが、どうして今になって自分は反ユダヤ主義者ではないなどと言えるのか、と。だが、これは本当のことだ。私だったらあのような政策はとらず、もっと穏便だったはずだ。このことの証明書類が二つある。しかしその書類を法廷に持ち込んでも、取り立てて効果はないだろう。検察側の手元には、反ユダヤ主義と解釈できる文書がいくらでもあるのだから。」(1946年5月24日)[10]
- 「ヒトラーは天才で、強い性格だったにもかかわらず、暗示にかかりやすかった。ゲッベルスとヒムラーはそこに付け込んで、何百万人もの人を殺戮するためのガス室などという馬鹿げた計画を進めさせたに違いない。一つの人種を絶滅させることに、良心の痛みを感じないとしても、国内外から多くの批判を集めることぐらいは分かるだろうに。私は自分をモラリストだとは思わないが、騎士道精神は持っているつもりだ。ユダヤ人を殺して戦争に勝てるなら私はあまり思い悩まないだろう。だが、あれは本当に無意味だし、誰の利益にもならず、ただドイツの名を汚しただけだ。女性や子供の殺害は紳士のやることではないと思う。彼らはたまたまゲッベルスのヒステリックなプロパガンダの犠牲になっただけなのだ。私は死後に天国に行くとも地獄に行くとも思っていない。敬虔な者が信じているような事を私は信じない。だが、私は女性を尊敬しているし、子供の殺害はスポーツマンらしくないと思う。これが私がユダヤ人虐殺について思い悩んでいることだ。」(1946年5月28日)[22]
妻カリンについて
編集- 「私が威張り散らすのも、一生懸命働くのも、壮大なものにとり憑かれたようになっているのも、みんな根は一つなんだ。カリンが私のために捨てた生活を、彼女に取り戻してもらおうと、私は決意していたんだ。」(1931年に最初の妻カリンが死去した際に涙ながらに姪に語った言葉)[23]
プロイセン州内相として
編集- 「警察は国家に敵対する組織の活動に対し、もっとも痛烈な手段を持って戦い、必要とあれば、躊躇なくピストルを使用する。現在、警察官のピストルから発射される弾丸は、どれも私の弾丸だ。」(1933年3月5日、プロイセン州警察のナチ化を完成させたことへの意気込み)[2]
空軍総司令官として
編集- 「私は名目上、航空委員長だが、実際には戦後最初の航空相なのだ。私は1918年に(リヒトーホーフェン大隊の)みんなと別れた時の約束を必ず実行してみせる。ドイツ空軍を再び持つのだ。今のところはまだ軍用機は駄目だ。理由は分かっているだろう。ヴェルサイユ条約が今でも効力を有しているからだ。しかし総統があの条約を破棄する政治的な準備ができ次第、私は用意を整えておきたいのだ。私には一緒に仕事をしてくれる信頼のおける友人が必要だ。もう一度私の副官となってくれないか?」(リヒトーホーフェン大隊でゲーリングの副官を務めていたカール・ボーデンシャッツを1933年に、副官に改めて勧誘した時の言葉。ボーデンシャッツはこの言葉に感動し、即座に承諾した。)[24]
- 「国民の自由を達成し、国家の力を確保するためなら、多少の快適さをあきらめてもたいして大きな犠牲ではない。軍備を増強すればするほど、我々の安全は保障され、攻撃される可能性も減少する。総統はじめ我々指導者は自分でできないことをあなたがた国民に要求したりはしない。脂肪の取りすぎは、太りすぎの腹を作る。私自身バターの量を減らして10キロやせた。」(1935年)[25]
- 「航空省で誰がユダヤ人かは私が決める。」(1933年。ユダヤ人とのうわさがあった部下エアハルト・ミルヒをかばった言葉)[26]
- 「もし敵の爆撃機がドイツの国境を超えるような事があれば、私のことを『ヘルマン(旦那)』ではなく『丁稚小僧』と呼んでくれ。」(ルール地方とライン地方を視察した際に)[27]
- 「この戦争が終わって、ドイツが1933年の国境線を維持できていれば、我々は喜ばねばならないだろう…。」(1942年終わり。この頃にはドイツの敗戦を予期していたと思われる)[28]
- 「我が総統!スターリングラードの第6軍に対する空輸作戦は、私が個人的に保証いたします。信用下さって結構です。」(1942年11月)[29]
ジョーク
編集- 「ドイツ人は一人なら、立派な人間だ。ところが二人寄ると同盟 (bund) を作り、三人寄れば戦争を始める。イギリス人は一人なら阿呆な人間だ。二人寄るとクラブを作り、三人寄れば帝国を作り上げる。イタリア人は一人ならテノールだ。二人寄ると二重奏をはじめ、三人寄れば退却する。日本人についていえば、一人の日本人は神秘だ。二人寄っても神秘だし、三人寄っても…やっぱり日本人は神秘そのものだ!」(1945年10月29日、ニュルンベルク裁判での拘禁中にアメリカ軍精神分析官ダグラス・ケリー少佐に)[30]
ニュルンベルク裁判関連
編集- 「他国には独立国の政府を裁く権利はないと思う。しかも被告は寄せ集めの、政権の代表とは言えない者ばかりだ。私が初めて聞いたような取るに足らない者までいる。ドイツを動かしていたナチの大物の中に私を含めたのは正しいと認めよう。しかしなぜフリッチェがいるのだ? 彼は宣伝省内に何人もいた局長の一人に過ぎない。それに何の罪も犯していないフンクのような者まで含まれている。彼は命令に従っただけであり、命令を下したのはこの私だ。さらにはカイテルも裁判を受けている。彼は陸軍元帥と呼ばれているが、ヒトラーの命令には何でも従う小物に過ぎない。被告の中で裁判にかけられるに値する大物がいるとすれば、私、シャハト、それからヒトラーの非力な追随者に過ぎないが、たぶんリッベントロップ、またニュルンベルク法を提案したフリックぐらいだ。ひょっとすると他の数名、たとえばローゼンベルクとザイス=インクヴァルトも含めてもよいかもしれない。残りは全て手下であって自分の意思で行動することなどなかった。参謀本部の起訴もお笑い草だ。あの軍人たちは戦争遂行の謀議に加わっておらずドイツ軍人なら誰でもそうするように命令に従っただけだ。謀議が存在したとすれば、それに関与したのはすでに死んだり行方不明になった者たちばかりだ。ヒムラー、ゲッベルス、ボルマン、それからもちろんヒトラーだ。私は常々ボルマンを粗野なやくざ者と思っていたし、ヒムラーも信用したことがない。私なら二人とも解雇していただろう。…・共同謀議に対する告発は、笑止千万だ。すべての出発点はヴェルサイユ条約にあり、ドイツが国家としての尊厳を回復するための行動をとらざるを得なくなったという事実にある。ヴァイマル共和国は失敗だったし、私はいわゆる民主主義にうんざりした。あの政治形態はアメリカではうまく機能するのかもしれない。しかしドイツには向かない。我々ドイツ人は政治に無関心だし非常に単純なので、選挙を行えばその時々で好きな方向へ揺り動く可能性がある。そういうわけで私は指導者原理が正しいと思っている。ドイツ人はこれまでも強力な指導者を求め続けてきたし、同様にこれからもそういう指導者を必要とするだろう。」(1946年5月28日)[31][32]
- ――判決が出るまでたっぷり話す時間がありますな
- 「“死刑判決が出る前に”かね? 死ぬことなど何でもない。私が気にかけているのは、歴史における私の評価だ。だから私はね、デーニッツが降伏文書に署名することになったのを喜んでいるんだよ。敗北を受け入れた指導者を国民が高く評価することはあり得ないからな。死についてどう思うかって? ふん、私は12歳の頃から死を恐れたことはないんだよ。」(アメリカ陸軍心理分析官グスタフ・ギルバート大尉に対して)[33]
- 「もちろん、一般市民は戦争を望んでいない。貧しい農民にとって、戦争から得られる最善の結果といえば、自分の農場に五体満足で戻ることなのだから、わざわざ自分の命を危険に曝したいと考えるはずがない。当然、普通の市民は戦争が嫌いだ。ロシア人だろうと、イギリス人だろうと、アメリカ人だろうと、その点についてはドイツ人だろうと同じだ。それは分かっている。しかし、結局、政策を決定するのは国の指導者達であり、国民をそれに巻き込むのは、民主主義だろうと、ファシスト的独裁制だろうと、議会制だろうと共産主義的独裁制だろうと、常に簡単なことだ。」
- ――一つだけ違いがある。民主主義体制では国民は代表を通じて意見出来るしアメリカでは議会だけが宣戦する権利がある
- 「それはそれで結構だが、意見を言おうと言うまいと、国民は常に指導者たちの意のままになるものだ。簡単なことだ。自分達が外国から攻撃されていると説明するだけでいい。そして、平和主義者については、彼らは愛国心がなく国家を危険に曝す人々だと公然と非難すればいいだけのことだ。この方法はどの国でも同じように通用するものだ。」(同じくギルバート心理分析官に対して、1946年4月18日)[34]
- 「いったん政権についてからはいかなる状況の下でもこの政権を守り通そうと決意しました。選挙や議会内で多数を占められるか、などにいちいち左右されたくなかったのです。」(裁判において)[35]
- 「ある人種が他の人種に対して支配民族と自称する事に対し、私が同意を表明したことは一度もありません。そうではなくて、私は人種の相違を強調しただけです。」(裁判において)[9]
- 「人は誰でも死ななければならない。だが殉教者として死ぬということは不死になるということだ。キミたちは我らの遺骨を、いつの日か大理石の柩に納めることになるだろう。」(通訳の一人に対して)[36]
- 「私には、アメリカ合衆国が自らの戦時動員計画を事前に出版したという記憶はありませんね。」(法廷で、主任検事ロバート・ジャクソンの尋問「ラインラントの再武装計画を外国に隠していたのではないか」に対して。この供述にジャクソンは激しく狼狽した)[37]
- ――ドイツ軍は交戦規定を守っていたか
- 「ジュネーブ協定やハーグ協定と言った条約は、近代戦争によって踏みにじられました。私は、ここで、我々にとって最大かつ最強で、もっとも重要な敵対者の言葉を引きたいと思います。イギリスのウィンストン・チャーチル首相はこういいました――『生死をかけた戦いでは、結局のところ、法律は存在しない』。」(裁判で。この供述に焦ったジェフリー・ローレンス裁判長は休廷を命じた)[38]
- 「検察側は、上位者への黙従を強制する階層構造が、アウシュヴィッツやマウトハウゼンなどの絶滅収容所を産み出したと主張しています。しかし『指導者原理(フューラープリンツイプ)』は手堅い管理手法であるにすぎません。権限は上から下へ渡され、責任は下から上へと至るのです。こうした考え方はナチ党だけのものでしょうか。同様の例をあげたいと思います。指導者原理は、カトリック教会とソ連政府が基盤においている原則と同じものなのであります。」(裁判で。ゲーリングはこの供述と共にソ連検察の方を向いてうなずいた)[38]
- 「ドイツ国家元帥が絞首刑になるわけにはいかない。そんなことはドイツのために許すことはできない。ゆえに私は偉大なるカルタゴの勇将ハンニバルのやり方で、死を選ぶ。(中略)私の身体検査にあたった者を責めるべきではない。なぜならカプセルは事実上発見不可能だったからだ。もし発見されたとしてもそれは単なる偶然だっただろう。追伸、ギルバート博士こそ処刑方法を銃殺刑にしてくれという私の嘆願が却下されたとわざわざ伝えにきてくれた人である」(遺書より)[36]
人物評
編集身近な人物から
編集- 「この子は将来偉大な人物か大犯罪者になるだろう。」(少年期のヘルマンについて。母フランツィスカ)[39]
- 「ゲーリングは模範的な生徒である。そして彼は将来を大いに期待させる素質を発展させている。彼は危険を冒す事を恐れない。」(カールスルーエ幼年士官学校の最後の成績表に書かれている記述)[40]
- 「ヘルマンについて確実に言えることが一つある。一度彼が自分のヒーローを選んだら、どのような逆境にあろうとも、そのヒーローを支持することだ。」(ヘルマン・フォン・エーペンシュタインの名付け子ハンス・ティリング教授)[41]
- 「初めて見たときから私は彼が好きになった。そうなるのは難しいことではなかった。彼が子供には慣れていないことはすぐにわかったし、初め彼は遠慮がちだった。しかし彼は(当時子供だった)私を他の大人と同じように一人前に扱ってくれ、私がしゃべっている間も真剣に耳を傾けてくれた。彼は私たちを大いに笑わせ、ことに飛行機での冒険をふざけて語るときにはそれが著しかった事を覚えている。私には父が彼をすっかり気に入ってしまったことが分かった。母はどうかと言うと彼女は片時も彼から目を離さないことが分かった。当時私はその事を言葉で表現できなかったが、彼女が彼を愛していることを感じとっていた。」(ゲーリングの前妻カリンの子トーマス・フォン・カンツォフ)[42]
他のナチ党幹部から
編集- 「すばらしい!勲功章(プール・ル・メリット勲章)を受章した戦場の英雄とは。想像してみたまえ!これ以上はないほどの宣伝だ!そのうえ彼は金持ちで、私には一文の金の心配も無くなるのだ。」(アドルフ・ヒトラー。1922年。ゲーリングに初めて出会った際に語った言葉)[1]
- 「ゲーリングと話をしていると温泉につかっているような気分になる。その後には元気回復だ。彼は物事を伝える際に、心躍らせる方法を心得ているのだ。」(1940年、ヒトラー。アルベルト・シュペーアに対して語った言葉)[43]
- 「ゲーリング! 空軍は何の役にも立たん。貴官の責任だ。貴官が怠けているからだ!」(1943年、ヒトラー)
- 「私にはわかっていた。ゲーリングは信用できない。奴は空軍をめちゃくちゃにした。奴は腐っている。奴が率先して我が国を腐らせた。それに加えて奴は何年も前からモルヒネ中毒だ。私にはとっくにわかっていた。」(1945年、ゲーリングの『裏切り』に激怒したヒトラー)[44]
- 「ゲーリングと激しくやりあった。あの胸糞悪い男は、ますます党を分裂させていく。まったく頭に麦わらがつまっているように愚鈍だし、おまけにヒキガエルのように怠惰だ。奴はいままで他の人間を軽蔑的に扱っていた。昨日は私にまでそんな態度を取ろうとした。」(1929年のヨーゼフ・ゲッベルスの日記。)[45]
- 「最も厳しい戦いの最中に彼の手から愛する妻を引き裂かれた時、彼の表情は石となった。しかし彼は一瞬たりとも揺らぎはしなかった。真剣にしっかりと、総統の盾持ちである彼は自分の道をさらに進んだ。子供の心を持つこの断固たる兵士…。」(1933年1月29日付けのゲッベルスの日記。カリン死去後のゲーリングの働きについて)[46]
- 「胸のすくような果断さを持って、ゲーリングはプロイセンを片づけた。彼は実に過激なことをやってのける力と熾烈な闘いに耐え抜くだけの神経を備えている。」(1933年のゲッベルスの日記。ゲーリングのプロイセン統治への評価)[47]
- 「ゲーリングが来た。胸糞悪い老いぼれ。将軍になりたいのだ。すぐにでも元帥にしてやればいい。遠大な計画を抱いているのか。奴は厚かましくも偉そうな態度で、皆をないがしろにする。デブめ、さっさと立ち去ってくれ。」(1933年のゲッベルスの日記)[28]
- 「航空戦における我が国の劣勢は壊滅的だ。総統はそのことで大層悩んでおられる。特に直接的にも間接的にもその責任がゲーリングにあるという点で。それでも総統はゲーリングに対して不利なことを企てる術がない。なぜならそれによって国家と党の権威が、ひどく損なわれることになりかねないからだ。」(1944年6月6日、ゲッベルスの日記)[48]
- 「あちこちで提案されていることだが、空軍の指揮権を海軍に移して、デーニッツに任せてはどうだろう。」(1945年のゲッベルスの日記)[49]
- 「残念なことだが、デーニッツのような男が党を代表するのではなく、党はゲーリングに代表されているのだ。この男と党のかかわりと来たら、雌牛と放射線研究のかかわりと同レベルだというのに。」(1945年のゲッベルスの日記)[50]
- 「ヒトラーと同じく、ゲーリングにも私は弱かった、と認めねばなるまい。私が彼と知り合った時、彼は魅力的で高い知性の持ち主だった。その後も私はずっと、彼はただの個人主義者とか、奇人とかではないと思っていたし、病気だとか邪悪な男だとも思わなかった。」(1979年、アルベルト・シュペーア)[6]
- 「ゲッベルスとゲーリングは、もちろん陰謀もめぐらしてはいたが、粗暴ではなかった。この二人は非常に知的だった。ただゲーリングは墜落していた。けれどもそれはもしかしたら病気のせい、モルヒネ中毒のせいかもしれなかった。もう知るすべもないが。ゲッベルスは腐っていなかった。ただ恐ろしいほどに危険な男だった。」(1979年、アルベルト・シュペーア)[51]
空軍の部下達から
編集- 「1934年・1935年のゲーリングと1942年・1943年のゲーリングは、非常に異なった現象である。30年代にはエネルギーにあふれ、自覚を持った闘争的な人格であったが、40年代には疲れて怒りっぽい男になり、祖国の使命から遠く逃げ出し、もはや意志を貫徹することができなかった。」(空軍元帥アルベルト・ケッセルリンク)
- 「ドイツ空軍総司令官として、誰よりもゲーリングは、西部において当時失われていた制空権を現有の勢力で回復することは不可能であることを明確に理解しておくべきだった。ドイツ空軍は対ソ作戦によってその能力の限界以上まで酷使されていたからである。この時点以降になされたことは、いわゆる『元金に手をつける』という状態になっていた。ドイツの航空産業はこれほどの大規模戦争に対処できなかったし、失われた搭乗員の補充能力もなかった。」(空軍中将アドルフ・ガーランド)[52]
外国人から
編集- 「彼は、稚気を帯びた人好きのする人物である一方、いまだに血気盛んなエースパイロットの雰囲気を漂わせている。彼にはおびただしい数の画家や彫刻家の友人がいる。この点でゲーリングは、ルネサンス時代のイタリアの王子を思わせる。」(1938年に駐独アメリカ大使が本国にあてて書いたゲーリング評)[53]
- 「ゲーリングは敏感で、傷つきやすかった。そんなとき彼はギリシア神話のアキレウスのように自分の屋敷に引き上げてしまった。けれどもヒトラーが彼を呼び戻し、肩を叩きながら『私の善良なゲーリング』とでも言おうものなら、喜びの余り彼の顔を紅潮して、そしてすべては忘れ去られた…。」(駐独フランス大使アンドレ・フランソワ=ポンセ(en))[54]
- 「周りの者を支配し、攻撃的で冷酷である反面、時として優しい面も見せるなど、陽気で社交的なところもあり、被告の中ではただ一人、真に指導者的な人物。」(ニュルンベルク裁判の際にゲーリングの精神分析をしたアメリカ軍精神分析医ダグラス・ケリー少佐)[55]
- 「ゲーリングの独善的で古臭い価値観はあらゆる事に及び、女性に対する騎士的な態度にまで表れている。おもてむきは、ことさら腰を低くして、保護者のようにふるまい、寛大なところを見せながら、その裏には利己的な目的が隠されており、その目的の妨げとなる、めめしい人道主義的な価値など認めていないのだ。」(ニュルンベルク裁判の際にゲーリングの精神分析をしたアメリカ軍心理分析官グスタフ・ギルバート中尉)[5]
参考文献
編集- レナード・モズレー著、伊藤哲訳、『第三帝国の演出者 ヘルマン・ゲーリング伝 上』、1977年、早川書房
- レナード・モズレー著、伊藤哲訳、『ゲーリング 第三帝国の演出者 上』、1980年、ハヤカワ文庫(文庫版)
- レナード・モズレー著、伊藤哲訳、『第三帝国の演出者 ヘルマン・ゲーリング伝 下』、1977年、早川書房
- レナード・モズレー著、伊藤哲訳、『ゲーリング 第三帝国の演出者 下』、1980年、ハヤカワ文庫(文庫版)
- ジョセフ・E・パーシコ著、白幡憲之訳『ニュルンベルク軍事裁判 上』、1996年、原書房、ISBN 978-4562028641
- ジョセフ・E・パーシコ著、白幡憲之訳『ニュルンベルク軍事裁判 上』、2003年、原書房(新装版)、ISBN 978-4562036523
- ジョセフ・E・パーシコ著、白幡憲之訳『ニュルンベルク軍事裁判 下』、1996年、原書房、ISBN 978-4562028658
- ジョセフ・E・パーシコ著、白幡憲之訳『ニュルンベルク軍事裁判 下』、2003年、原書房(新装版)、ISBN 978-4562036530
- ラウル・ヒルバーグ著、望田幸男・原田一美・井上茂子訳、『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 上巻』、1997年、柏書房、ISBN 978-4760115167
- ラウル・ヒルバーグ著、望田幸男・原田一美・井上茂子訳、『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 下巻』、1997年、柏書房、ISBN 978-4760115174
- グイド・クノップ著、高木玲訳、『ヒトラーの共犯者 上 12人の側近たち』、2001年、原書房、ISBN 978-4562034178
- 金森誠也著、『ゲーリング言行録 ナチ空軍元帥おおいに語る』、2002年、荒地出版社、ISBN 978-4752101284
- レオン・ゴールデンソーン著、小林等・高橋早苗・浅岡政子訳、『ニュルンベルク・インタビュー 上』、2005年、河出書房新社、ISBN 978-4309224404
- 『歴史群像 第2次大戦欧州戦史シリーズ Vol. 26 図説ドイツ空軍全史』、2007年、学研、ISBN 978-4056047899
- アンナ・マリア・ジークムント著、平島直一郎・西上潔訳、『ナチスの女たち 秘められた愛』、2009年、東洋書林、ISBN 978-4887217614
- Gustave M. Gilbert著、『Nürnberger Tagebuch: Ehemaliger Gerichts-Psychologe beim Nürnberger Prozeß gegen die Hauptkriegsverbrecher』、2009年、Fischer、ISBN 978-3596218851(ドイツ語=英語原版、Gustave Mark Gilbert著、『Nuremberg Diary』(1947) Farrar, Straus and Company: New York からの翻訳)
出典
編集- ↑ 1.0 1.1 クノップ、上巻92頁 引用エラー: 無効な
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タグ; name "クノップ上92"が異なる内容で複数回定義されています - ↑ 2.0 2.1 クノップ、上巻79頁
- ↑ クノップ上巻、120頁
- ↑ クノップ、上巻101頁
- ↑ 5.0 5.1 パーシコ、下巻134頁 引用エラー: 無効な
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タグ; name "パーシコ下134"が異なる内容で複数回定義されています - ↑ 6.0 6.1 クノップ、上巻91頁
- ↑ パーシコ、上巻246頁
- ↑ パーシコ、上巻134頁
- ↑ 9.0 9.1 クノップ、上巻83頁
- ↑ 10.0 10.1 ゴールデンソーン、上巻109頁
- ↑ ゴールデンソーン、上巻115頁
- ↑ モズレー、下巻38頁
- ↑ 金森、138頁
- ↑ 金森、140頁
- ↑ モズレー、下巻48頁
- ↑ ヒルバーグ、上巻36頁
- ↑ ヒルバーグ、上巻304頁
- ↑ クノップ、上巻132頁
- ↑ 金森、134頁
- ↑ ゴールデンソーン、上巻107頁
- ↑ ゴールデンソーン、上巻107-108頁
- ↑ ゴールデンソーン、上巻131頁
- ↑ パーシコ、下巻130ページ
- ↑ モズレー、下巻206頁
- ↑ パーシコ(1996年版)、上巻97頁
- ↑ 『歴史群像 第2次大戦欧州戦史シリーズ Vol. 26 図説ドイツ空軍全史』138ページ
- ↑ パーシコ(1996年版)、上巻76・250頁
- ↑ 28.0 28.1 クノップ、上巻82頁 引用エラー: 無効な
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タグ; name "クノップ上82"が異なる内容で複数回定義されています - ↑ クノップ、上巻137ページ
- ↑ モズレー、下巻169頁
- ↑ ゴールデンソーン、上巻129-130頁
- ↑ ゴールデンソーン、上巻134頁
- ↑ パーシコ(1996年版)、上巻252頁
- ↑ Gilbert、270ページ
- ↑ 『ニュルンベルク軍事裁判 下』(1996年版)94ページ
- ↑ 36.0 36.1 クノップ、上巻148ページ
- ↑ パーシコ(1996年版)、下巻106頁
- ↑ 38.0 38.1 パーシコ(1996年版)、下巻98頁
- ↑ クノップ、上巻88ページ
- ↑ モズレー、上巻30ページ
- ↑ モズレー、上巻29頁
- ↑ モズレー、上巻82頁
- ↑ クノップ、上巻124頁
- ↑ クノップ、上巻145ページ
- ↑ クノップ、上巻97ページ
- ↑ ジークムント、60頁
- ↑ クノップ、上巻98頁
- ↑ クノップ、上巻143頁
- ↑ クノップ、上巻357頁
- ↑ クノップ、上巻122頁
- ↑ クノップ、上巻90頁
- ↑ モズレー、下巻113頁
- ↑ パーシコ(1996年版)、上巻148頁
- ↑ クノップ、上巻116頁
- ↑ パーシコ(1996年版)、上巻238頁