新庄剛志
日本の野球指導者、元プロ選手 (1972-)
新庄 剛志(しんじょう つよし、1972年1月28日 - )は、長崎県下県郡美津島町(現:対馬市)生まれの元プロ野球選手(外野手、内野手)、タレント、実業家、商品プロデューサー、画家、地方競馬馬主。
語録
編集阪神時代
編集- 「阪神の新庄剛志です。この(レコード大賞の)ステージに上がるのが僕の夢でした」
- 1992年12月31日、TBS『第34回日本レコード大賞』に川中美幸のエスコート役として出演した際に第一声として。阪神球団広報を通さずに出演したため、球団を大いに慌てさせた。TBSによると、「本人から出演承諾をいただいており、てっきり球団も承認して下さったものと思っていた」とのこと。[1]
- 「野球に対するセンスがないって見切った」
- 「父の命には代えられませんから」
- 引退撤回時の一言。かねてから体調が思わしくなかった父の病状が悪化したと母から電話で聞かされたのだが、実はこれは新庄に引退を思いとどまらせるために母が打った策であり、その時当の父親は近所の行きつけの飲み屋で引退撤回の祝杯をあげていた。[4]
- 「僕は外人になりたいです」
- 「ジーンズが似合わなくなるのが嫌だから、下半身は鍛えたくない」
- 記者から「ウエイトトレーニングをしないのか」との質問を受けて。[5]
- 「あまりいっぺんに言われると、オレ頭が悪いので覚えきれません」
- 1998年秋季キャンプにて野村克也新監督から面接を受け40分ほど野村の話が続いたところで、こう言って遮り面接を切り上げた。しかし本人に悪意はなく、野村も「可愛い奴や」と笑いながら振り返っている。これには新庄の思惑があり、話を一度に聞いてしまうよりも途中で切り上げたほうが先に監督と接触出来るチャンスがあるのではないかと思ったという。[6]
- 「僕は盗塁に興味がないんです」
- 「明日も勝つ!」
- 延長12回裏に槙原寛己からの敬遠球をサヨナラ安打した1999年6月12日、および9月10日の試合勝利後のヒーローインタビューにて。しかし、いずれも翌日の試合は敗戦(9月の場合は翌日より12連敗〈2016年終了時点で球団歴代最長タイ記録〉)。その後、日本ハム時代の2004年9月20日(プロ野球ストライキ明けの試合に勝利後)にて再度発言。翌日に勝利してこのジンクスは消えたが、この日に古巣・阪神は敗戦したため、一部ファンからは「阪神の負けフラグ」とも言われている。[8]
- 「守備で打点1」
- 打てなかった時は守備で1点を防ぎ、チームに1点分をもたらすという意気込みから。
- 「やっと自分にあった球団が見つかりました。その球団は、ニューヨーク・メッツです」
MLB時代
編集- 「何事につけ目立つ首都のニューヨークに行きたかったから」
- 「記録はイチローくんにまかせて、記憶はボクにまかせて」
- 「理想の体型は公衆トイレの男性用マーク」
- 「あれってミアミ?」
- 「バント? ムリオだね。右打ち? 意味ナシオ」
- 「にがっ!」
- 「ベストドレッサー賞はメジャーでもらった野球の賞より嬉しい」
- ベストドレッサー賞受賞会見で。
- 「チームが最後まで(ワイルドカード枠を)争っていたから、個人的なことでチームに迷惑を掛けたくなかったんです」
- 2002年にチームがワイルドカードでプレーオフ進出を決めた直後のシーズン最終戦にて。400打席のインセンティブ契約を結んでいたが、あと6打席足りない状態で6番で先発する新庄へ、試合前にダスティ・ベイカー監督から「何で今まで黙っていたんだ、あと6打席だろ。そしたら今日だって1番に入れたのに」と詰め寄られたことに対して。最終的に400打席には2打席足りなかったが、この試合で新庄は2度、走者として果敢に本塁を奪い、打者であったチームメートの若手2人、メジャー初スタメンのコーディ・ランサムと同じくメジャー1年目のトレイ・ランスフォードは1打点ずつを記録し、2人から「ありがとう、君は僕らのヒーローだ!」とお礼を言われている。[15]
- 「Movie Star」
- 2003年、新庄が一塁へ出塁すると、元同僚のJ.T.スノー一塁手から「来季はどうするんだ」と質問され、本人は「まだ分からない」とのあとに「ムービースター」ときり返した。全て英語での会話である。テレビ番組の企画でスノーが小型マイクを装着しているのを知った上でのネタ発言だというが、日本でもニュースのネタとなった。[16]
日本ハム時代
編集- 「メジャーリーグでは英語ばかりで、これでやっと日本語で話ができると思ったら監督が外国人だった」
- 日本ハムへ入団するにあたっての気持ちを聞かれて。[17]
- 「8番以外ならなんでもいいよ」
- 2004年に起こったプロ野球再編問題の渦中で球界の趨勢が1リーグ制に傾きかけている時、新聞紙上で。[18]
- 「現役選手には居所はあるが、1番辛いのは、裏方さん(ブルペン捕手、バッティングピッチャーも含めたチームスタッフ)。チームあっての裏方さんだから」
- 同じく球界の趨勢が1リーグ制に傾きかけている時、チームの廃止について、コメントを求められて。
- 「MVPはボクのものです!!」
- 2004年のオールスターゲーム直前の本拠地最終戦でヒーローインタビューを受け、オールスター出場への意気込みを振られて。[19]
- 「本当に獲れるとは……思ってました!」
- 2004年のオールスターゲームにてMVPを獲得した際のインタビューで。[19]
- 「これからは、パ・リーグです」
- 同じく、2004年のオールスターゲームにてMVPを獲得した際のインタビューで。[19]
- 「今日のヒーローは僕じゃありません、みんなです!!」
- 2004年9月20日、日本初のプロ野球ストライキ明けの初戦となった福岡ダイエーホークス戦(札幌ドーム)にてサヨナラ満塁本塁打(しかし、前の走者を追い越してサヨナラ単打となった)を打ち、お立ち台で。この後、前述の「明日も勝つ!」が飛び出すこととなる。[20]
- 「あれでも(肩の強さは)落ちたんですよ」
- 2004年12月放送の『いつみても波瀾万丈』出演時に、肩について聞かれた際に。高校の野球部の同期からは、プロ入り後「お前、肩(の強さが)落ちた?」と言われたという。
- 「右キンタマ打法!! 大当たり〜♪♪♪」
- 2005年4月15日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦のネクストバッターズサークル内にてファウルボールが局部に直撃した直後の打席で本塁打を打った。この際の、日本ハム入団後より始めている本塁打の打法名(専属広報を通じた談話にて発表する)をこう命名。ニュースなどでは「放送禁止用語打法」と紹介されることもあった[21]。なお阪神時代1999年9月23日の巨人戦では、1回表の第1打席前のネクストバッターズサークル内でファウルボールを脚部に受けて負傷し、その打席で代打をおくられている[22]。
- 「札幌ドームのロッカールームは携帯電話の電波が悪いから悩んでいたが、今度アンテナを付けてくれることになったので残留した」
- 2005年11月に日本ハム残留を発表した記者会見の場で[23]。もちろんこれは冗談で、少し前に道新スポーツにて現役続行が伝えられたときには「(体力的に)あと1年は現役を続けられそうだったから」と語っていた。
- 「今年の俺のゴールデングラブ賞はおかしい。1年間この賞を心の中で目指して取り組んでいた選手に申し訳ない。来年からは、印象ではなく数字で選んでほしい。そうでないとこの素晴らしい賞の価値がなくなってしまう」
- 「監督のことをボロクソに言いますから、監督も僕のことをボロクソに言ってください」
- 阪神監督時代の野村克也は2000年を最後に新庄がFA退団した際に「たったひとりのレギュラー選手がいなくなってしまった」と話したが、再び敵将となった楽天監督時代の野村は2006年の開幕戦試合前に新庄が演出したパフォーマンスショーを見て「あの人は芸能人ですから」とコメント。新庄は日本ハム対楽天を注目カードに仕立て上げるための作戦として、開幕前より野村に対してこう持ちかけていた。[25]
- 「今日の試合はお前の人生でムチャクチャ大事だから、死ぬ気で打席に立て! このチャンスを逃したら二軍に落ちてクビ」
- 現役引退を自身の胸のうちで決意していた2006年3月29日の試合前に監督室へ出向き、トレイ・ヒルマン監督へ自身の代わりに森本稀哲を先発で使ってほしいと進言し確約を得た上で、森本へこう発破をかけた。森本は「ここしかない」と覚悟を決めたその試合で3安打を放ち、やがて左翼のレギュラーの座を掴んだ。[26]
- 「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニホームを脱ぎます打法」
- 2006年開幕直後の4月18日オリックス・バファローズ戦(東京ドーム)で本塁打を打った直後に、恒例の打法名をこう命名して現役引退を表明。[27]
- 「ええ……今日、ヒーローインタビューという最高の舞台で報告したいことがあります。タイガースで11年、アメリカで3年、日本ハムで3年……。今シーズン限りでユニフォームを脱ぐことを決めました」
- 前述のオリックス戦のヒーローインタビューで。[27]
- 「MVPですか? 今年はもう無理ですね。MBPぐらいかな、Most Bakushou(爆笑) Player。爆笑取ってきます」
- 2006年のオールスターゲーム直前の試合でヒーローインタビューを受け、オールスター出場への意気込みを振られて。[28]
- 「NEVER MIND WHATEVER I DO! FAN IS MY TREASURE.」
- 「今日、この日、この瞬間を心のアルバムに刻んで、これからも俺らしくいくばいっ!」
- 引退セレモニーでユニフォームの下に着ていたシャツの背中に書かれていたファンへのメッセージ。[31]
- 「残りわずかな野球人生 明るく楽しく 白球を追い掛ける事を 今日この日 みんなに約束します」
- 引退セレモニーで大型ビジョンに映し出されたファンへのメッセージ。ポストシーズンへの意気込みも兼ねている。[31]
- 「名古屋の方には申し訳ないけれど、日本シリーズは甲子園でやりたい」
- 古巣である阪神に対する強い思い入れから、2006年のレギュラーシーズン1位通過会見で。この発言に対しては「ちゃんとした成績(日本シリーズ進出)を残してから言え」「まだ日本ハムの優勝が決まったわけでもないのに失礼だ」との批判も起きた。結局、日本ハムはプレーオフを全勝で勝ち抜いてリーグ優勝、日本シリーズ進出を決めたが、阪神のシリーズ進出はかなわなかった。[32]
- 「俺、毎日が日本シリーズなら4割打てるわ〜」
- 日本シリーズ中の発言。レギュラーシーズンでは観客の数が多くなればなるほど打率がアップしていた。週刊ベースボールでは、札幌ドームで観客が4万人を超えた日の打率は4割に達すると報じられていた。
- 「この(優勝)記者会見カタい。もっと明るくいきましょうよ、ね? 淡口さん」
- 「いやあ、(強運を)持ってるわ、俺。このマンガみたいなストーリー。出来すぎって思いません? 今後、体に気をつけたいと思います」
- 同じく日本シリーズ制覇後の会見での発言。引退を宣言した年にリーグ優勝、さらには本拠地・札幌ドームでの日本シリーズ制覇という展開を自ら比喩した[34]。なおシリーズ前の会見では「引退の年に日本一になったら死んじゃいます、僕」と発言していた。
- 「北海道で種を蒔き、フロント、監督、コーチ、選手で毎日、一生懸命水を与え…やっと3年目にして花が咲かせることができれたんじゃないかな、と。その花の色はとても美しくて、逞しい金の…金色の花が咲けたことに、凄く……嬉しく思ってます」
- 「俺の華麗な守備を魅せられなくなるのは残念だけど、引退の年にゴールデングラブに選ばれるなんて(強運を)持ってるわ。日本ハムがこれからも最強の外野陣をつくっていってくれる事を信じて外から応援しとくばい!!」
- 10度目のゴールデングラブ賞受賞が決まった時のコメント。[36]
現役引退後
編集- 「『新庄剛志』はもうあの瞬間(日本シリーズ第5戦)に終わったんだ。だからもうサインは打ち止めなんだよね」
- 元チームメイトの岩本勉との電話で。実際、日本ハム時代に書いていた筆記体でのサインを引退後は書かず、平仮名で「しんじょう」と小さく書いている。これは、ダイドードリンコ・D-1 COFFEEのCMでも確認できる。
- 「いつも松中君と僕との戦いだった」
- 2008年10月20日放送の日本テレビ『しゃべくり007初回拡大SP』に出演した際の「現役で今、一番上手いと思うプロ野球選手は?」との質問に対して、打者では松中信彦と答えた。松中は打球方向がよめないどこにでも打てる打者であり、中堅で守っていて左打者の松中の外角に投球がいった瞬間に左翼方向に2歩ぐらいスタートを切るが、逆方向の右中間に打たれて抜かれる(安打される)とのこと。
- 「今度僕を呼ぶときには、300Km/hを用意してください」
- 2008年12月24日放送のテレビ朝日『ナニコレ珍百景SP』にて、北九州市の三荻野バッティングセンターにある世界最速230Km/hバッティングマシンに挑戦し、初来店で打ち返すことに成功。店からの帰り際にこうコメントした。
- 「好きにすれば?」
- 2010年のオフに、海外FA権を行使した森本稀哲が、日本ハム残留か横浜移籍かで悩んでいた末、森本は新庄にメールを送信。新庄からの返信はシンプルだったが、このシンプルな返信で森本は横浜移籍を決断したという。
- 「みんな、夢はあるかい? 1%の可能性があれば、必ず、できる。今日からトレーニングを始めて、もう1回、プロ野球選手になろうと思います。みんなも何か挑戦しようぜ。」
- プロ野球トライアウトを目指すと決意したとき自身のTwitterにツイート。
監督時代
編集- 「監督と呼ばないでほしい。ビッグボスでお願いします」
- 監督就任記者会見の際に自らの呼称について呼びかけ。ネット上でも話題を呼び、「ビッグボス」はツイッターの急上昇ワードランキング「リアルタイム検索」で1位となった。
- 「夢はでっかく、根は太く」
- 新庄ビックボスのスローガンを記者に聞かれて答えた言葉。
- 「ダイエットはものすごく精神的に鍛えられる。スタイルを保っている人は自分に負けずしっかりした気持ちがあるんじゃないかな」
- 秋季キャンプにて清宮幸太郎へダイエット指示をしたときのコメント。
- 「夢を掴む為にはまず周りに発信すること。人を笑顔にしたいなら自分が笑顔でいること。感謝されるには自分から感謝すること。その場を楽しませるには、まず自分が楽しむこと。失敗しないしない為には失敗しない準備をしておく。何かをやってもらう方法はまず自分からやること」
- 自身のTwitterでツイート。
- 「苦労が楽しくなるまで苦労する事が苦労なんだよね」
- 自身のTwitterでツイート。
新庄剛志への言及
編集- 「SHINJOY」 -- ニューヨーク地元紙
- 『SHINJO(新庄)』+『「ENJOY(楽しむ)」または「JOY(喜び)」』の組み合わせ。メッツ時代の2001年、楽しそうにプレーする新庄をこう表現した。[37]
脚注
編集参考資料の略称
編集- 書籍
- 2001著書D:『ドリーミングベイビー』新庄剛志(光文社 2001年4月)
- 2006三洲田:『新庄のやり方50―人生・仕事に役立つ「SHINJO流」哲学』三洲田泰雅、覇夢付愛太(廣済堂出版 2006年12月)
- 2007小島:『SHINJO 夢をありがとう―新庄剛志と過ごしたアメリカ滞在記・北海道観戦記』小島克典(廣済堂出版 2007年3月)
- DVD
- 2007DVD:『SHINJO』(札幌テレビ放送、ビクターエンタテインメント 2007年1月)
出典
編集- ↑ 2006三洲田:192p
- ↑ 引退発言から一転、おわび会見nikkansports.com (1995年12月6日紙面) 2018年11月5日閲覧
- ↑ 2001著書D:39p - 45p
- ↑ 『大リーガー「新庄剛志」の育て方―子育ては“木育て”』新庄英敏(ゴマブックス 2002年5月)14p - 22p
- ↑ 2001著書D:132p
- ↑ 2001著書D:48p
- ↑ 松坂も同じ香水が「欲しい」/新庄剛志氏2 - 野球の国から 平成野球史nikkansports.com (2018年9月30日) 2018年11月5日閲覧
- ↑ 阪神・西岡に“タブー破り”を期待東京スポーツ新聞社 (2013年7月12日) 2018年11月5日閲覧
- ↑ 【12月11日】2000年(平12) 12億5千万円より“最低年俸” 新庄剛志「場所見つかった」(野球)Sponichi Annex 2016年1月1日閲覧
- ↑ 2007小島:41p
- ↑ 2001著書D:132p - 134p
- ↑ 2007小島:巻頭の最終ページ
- ↑ 2001著書D:129p
- ↑ G・パルトロー、人種差別を思わせるツイートで大炎上! セレブが参戦するも……サイゾーウーマン 2017年2月1日閲覧
- ↑ 2007小島:196p - 200p
- ↑ 2006三洲田:50p・51p
- ↑ 2007DVD:SHINJOの記憶→2004
- ↑ 日刊スポーツ2004年5月14日紙面
- ↑ 19.0 19.1 19.2 オールスターで2度目のMVP獲得新庄カウントダウン プロ野球 : nikkansports.com (2004年7月12日紙面) 2019年1月6日閲覧
- ↑ 勝敗を分けた延長戦 日本ハム - 劇的サヨナラが一転、球界史上初の珍事nikkansports.com 2016年元日閲覧 ※記事の本文の方では述べられているように、当試合は9回で終了している。
- ↑ よく考えると面白い!?SHINJOが生み出した記憶に残る『◯◯打法』を一挙紹介!G-TIMES 2017年2月17日閲覧
- ↑ ベースボール・レコード・ブック2000(ベースボール・マガジン社 1999年12月)カード別対戦成績 = スコアテーブル
- ↑ 2007DVD:SHINJOの記憶→2005
- ↑ 「新庄の受賞に「なぜ俺を選ぶ」/ゴールデングラブ賞」北海道日刊スポーツ 2016年元日閲覧
- ↑ 2006三洲田:39p・40p
- ↑ 森本稀哲 野球人生変えた新庄の欠場と運命の一打を振り返るNEWSポストセブン 2016年元日閲覧(週刊ポスト2015年10月30日号)
- ↑ 27.0 27.1 ヒーローインタビューで現役引退を表明nikkansports.com (2006年4月19日紙面) 2019年1月6日閲覧
- ↑ 逆転二塁打で決めた!2年ぶりお立ち台nikkansports.com (2006年7月19日紙面) 2019年1月6日閲覧
- ↑ 光った!優秀選手賞/オールスターnikkansports.com (2006年7月22日紙面) 2019年1月6日閲覧
- ↑ ルール無視「お笑い」で球宴ジャックへnikkansports.com (2006年7月21日紙面) 2019年1月6日閲覧
- ↑ 31.0 31.1 感涙!ファンへ背中の文字でメッセージnikkansports.com (2006年9月28日紙面) 2019年1月6日閲覧
- ↑ 日本シリーズは阪神との対戦を予言!?nikkansports.com (2006年9月26日紙面) 2019年1月6日閲覧
- ↑ 2007DVD:SHINJOの記憶→2006
- ↑ 2007DVD:SHINJOの記憶→日本シリーズ
- ↑ “フリーター”に転身宣言nikkansports.com (2006年10月28日紙面) 2019年1月6日閲覧
- ↑ ゴールデングラブ受賞に引退後初のコメントnikkansports.com (2006年11月9日紙面) 2019年1月6日閲覧
- ↑ 日本シリーズ勝ち負け関係な〜い!?nikkansports.com 2016年元日閲覧(2006年10月21日紙面)
- ↑ 2006三洲田:40p・41p
- ↑ プロデューサー・新庄剛志が「僕たちのプレイボール」で劇場満員を口約映画.com 2016年元日閲覧