日中戦争

1937年から1945年にかけての日本対中国の戦争

日中戦争前編集

  • 全中國的民眾們!我們中國工農紅軍北上抗日先遣隊,願意同全中國的民眾與一切武裝力量,聯合起來共同抗日,開展民眾的民族革命戰爭,打倒日本帝國主義。一切反日的民眾都應該幫助我們工農紅軍北上抗日先遣隊,團結在我們北上抗日先遣隊的周圍,加入我們的抗日先遣隊,武裝起來,直接同進攻中國的日本帝國主義的盜匪們作戰,一切抗日的民眾,都是我們的同胞,一切抗日的武裝,都是我們的同伴,我們都要聯合起來。一切禁止與壓迫我們抗日的個人團體與武裝隊伍都是漢奸賣國賊,我們應一致起來消滅他們。 -- 中華蘇維埃共和國中央政府、中國工農紅軍革命軍事委員會 中華蘇維埃共和國中央政府、中國工農紅軍革命軍事委員會為中國工農紅軍北上抗日宣言(1934年7月15日)
    • 全中国の民衆よ!我が中国工農紅軍の北上抗日先鋒隊は進んで全中国の民衆及び一切の武力と協力して抗日を為し、民衆の民族革命戦争を展開し、日本帝国主義を打倒せねばならぬ。全反日民衆は我が工農紅軍の北上抗日先鋒隊を援助してその周囲に団結し、我が抗日先鋒隊に加はり、武装して中国を脅かす日本帝国主義の匪賊共に直接決戦せよ!-- 中華ソビエト共和国中央政府、中国工農紅軍革命軍事委員会 (満州国軍政部顧問部『満洲共産匪の研究』(1936年)より訳文)
  • 就中差し当り眼前に横はれる問題は/[...]/三、一九三七年蘇国第二次五年計画の完成と極東軍備の完成並赤化攻勢の強化/[...]/であって、所謂一九三五─六年の危機と称せらるゝものである[...] -- 陸軍省新聞班『躍進日本と列強の重圧』 P.76(1934年7月28日)
  • 彼の語るところによるとロシアは依然として物質の欠乏に悩み大多数の民衆は反革命意識に燃えているが何分ゲ・ペ・ウの監視が厳重なため手も足も出ない状態であり殊に日本人に対しては最近監視益々厳重となり或るロシア人技師の如きは一台の日本製蓄音機を買ったばかりで懲役三年に処せられたほどである、現になお二名の日本人が監禁されており、その他ウラジオ要塞工事に使役された多数のロシア人が密偵の嫌疑で監禁されている、昨夜監獄を出された晩はウラジオにおいては丁度防空夜間演習中でウラジオの街は全く暗黒化され盛んにプロペラの爆音が聞えた、ニコリスク附近でも盛んい飛行演習が行われていたしホルワット駅附近でも巨大な砲戸工事中なるを目撃した、グラデコウから国境に入る手前では四台の装甲自動車を見附けた、ロシアの軍備熱の盛んなことには全く一驚を喫した次第である -- 神戸又新日報「“恐怖の赤露”真相を暴露す! 国境逃亡の邦人告白」(1934年10月)
  • 3. 外蒙等ヨリ来ル赤化勢力ノ脅威カ日満支三国共通ノ脅威タルニ鑑ミ支那側ヲシテ外蒙接壌方面ニ於テ右脅威排除ノ為我方ノ希望スル諸般ノ施設ニ協力セシムルコト -- 広田三原則 (1935年5月)
  • 支那に於てはソヴヱート運動拡大及び赤軍戦闘能力鞏化を全国的人民反帝運動の展開と結合せねばならぬ。この運動は帝国主義的圧制者に対する何よりも先づ日本帝国主義及びその支那従僕にたいする武装人民の人民革命闘争のスローガンの下に遂行されねばならぬ。支那ソヴヱートは、支那人民の解放闘争に於て、全支那人民を統一する中心点たらねばならぬ。 -- ゲオルギ・ディミトロフ 第七回コミンテルン世界大会(1935年夏)における演説 (満州国軍政部顧問部『満洲共産匪の研究』(1936年)より)
  • 大家起來!沖破日寇蔣賊的萬重壓迫,勇敢地:與蘇維埃政府和東北各地抗日政府一起,組織全中國統一的國防政府;與紅軍和東北人民革命軍及各種反日義勇軍一塊,組織全中國統一的抗日聯軍。 -- 中国共産党代表団 為抗日救國告全體同胞書 (八・一宣言。1935年8月)
    • ともに起き上つて、日寇および蔣賊の圧迫を勇敢に突き破り、中国ソヴィエト政府と東北各地の抗日政権を単一的全国的国防政府に組織し、紅軍と東北人民革命軍および各地反日義勇軍を単一的全国的抗日義勇軍に組織しやうではないか。 (外務省情報部『中国共産党一九三五年史』(1936年3月)より訳文)
  • 大日本帝国政府及/独逸国政府ハ/共産「インターナショナル」(所謂「コミンテルン」)ノ目的ガ其ノ執リ得ル有ラユル手段ニ依ル現存国家ノ破壊及暴圧ニ在ルコトヲ認メ/共産「インターナショナル」ノ諸国ノ国内関係ニ対スル干渉ヲ看過スルコトハ其ノ国内ノ安寧及び社会ノ福祉ヲ危殆ナラシムルノミナラズ世界平和全般ヲ脅スモノナルコトヲ確信シ/共産主義的破壊ニ対スル防衛ノ為協力センコトヲ欲シ左ノ通協定セリ -- 日独防共協定 (共産「インターナショナル」ニ対スル協定及附属議定書、1936年11月)

日中戦争中編集

  • 私は、早かれ遅かれ人類が必ずコミンテルンを潰すかどつちかにはつきりする時が来る、兎に角何時までもコミンテルンは悪いがどうも仕方ない、といふ生ぬるい態度は取り得ない。コミンテルンを討つか、コミンテルンに赴くか、世界はハツキリとこの二つの陣営に分れる時が来る。然かうしてそのスタートは我が日本とドイツが切つたのであります。[...] 我々日独両国はこれを一言にして申しますと、全人類の為に今やコミンテルンと公然闘いつヽあるのであります。これ丈けのことは日本人ははつきり認識しておかなくてはならぬ。またこれ位の理想と決心とを持たぬやうなことでどうするか。理想なき国民は亡びる。これは要するに、日独それに満州国を加へて世界人類の為めのこの聖戦に従事して居るのであります。然うして必ず勝つことを疑ひません。この聖戦に万一にも破れるといふことがあるならばその後に来るものは何であらうか。独り日本とドイツに極限された問題ではない。実に世界全人類を蔽う戦慄すべきものが来るといふことを惧れるのであります。 -- 松岡洋右『日独防共協定の意義』内「日・満・独の親善とその強化」(1937年7月24日の演説) P.90-94
  • 斯る事態であれば、有らん限りの力を尽して、物質上に於ても、精神上に於ても、支那をソ連化より救ふことは、支那の為ばかりでなく、日本の自衛の為に、必然の義務である。此の如き理由に於て、我等は此の戦争は日支の戦争でなく、日本対コミンテルンの戦争であるとする。極言すれば共産主義者との戦争であると、認むるものである。 -- 徳富猪一郎『戦時慨言』 P.12(1937年)
  • 「支那国民は一日も早く、ソ連の真の意図のあるところを認識し、共産主義の魔の手から自らを解放する為めに戦はねばならない。
    極東に於て、挙げて共産主義及び共産党支配のソ連と闘争の旗幟を明かにして、現にその闘争に自己を犠牲に供しつつあるのは日本のみである。日本が東洋平和の旗幟を揚げてゐるのは、当面の皮相的な平和に向つてではなく、共産主義を東洋から駆逐し真の東洋の永遠の平和を目的としてゐるからである。
    支那国民を救ふ道は打倒共産主義、打倒ソ連邦以外に道はないのである。」 ─ 高谷覚蔵 (元ソ連共産党員)『コミンテルンは挑戦する』 P.313 (1937年)
  • 帝国現前の諸政は、一切の活動力を共産主義絶滅の一事に集中せざるべからず。若し夫れ此の大斾を掲げて滅共産の下に内外を振粛し来たらんか、義を愛し、正を好むの日本国民にして、誰が砂上に偶語する者あらんや。如是にして内に既に基礎を置くこと堅固ならんか、大小の国家又我大義のあるところを涼となし、喜んで防共の目的を一にせんとするに至るや疑ふべからず。是れ真にまつろはぬものを伐ち平げて八紘一宇の大理想を顕揚するものと謂ふべき也。 -- 国際反共連盟 国際反共連盟設立趣意書 (1937年)
  • 一、中国は容共抗日満政策を放棄し、日満の防共政策に協力すること -- 第二次和平条件四項目(1937年)より
  • 元来スターリンは随分思ひ切った冒険政治家だが、彼の対外冒険政策の内で、特に注意すべき事は日ソ間の問題である。国内特に極東では、国民に対して、恰も日本が対ソ攻撃を準備して居るといふ様な感想を与へることに一生懸命である。事実スターリンは、始終反日策謀を廻らして居る蒋介石に、日本の戦力の消耗を画策すると同時に、日本が支那に深入りして戦力を消耗し切った場合、極東軍及び太平洋艦隊による一撃を準備することを怠っては居ない。極東軍だけでも約二十七万、狙撃師団約二十、これにザバイカル軍管区及び私の部下だった内務人民委員部軍隊を加へれば、バイカル湖以東に総計約四十万、狙撃師団約二十五の赤軍を擁し、国境に二千に近い軍用機を集中し、浦潮ナホドカ、オリガ等の各地に大小九十余隻の潜水艦を待機させ、今尚頻に之を強化して居る狂的事実は何よりの其の証據である。[...]之によって始めてソ聯邦の対支援助の真意を説明し得るのであって、国際的義務に就いての虚偽の声明や、支那国民に対する友情的援助と言ふ様な言葉では到底説明し得るものではない。支那は現在では単にスターリンの冒険政策の道具に使はれて居るに過ぎない。果して支那国民に対して真の同情を有するや、否やは、最近極東地方で行はれた支那人の大量検挙の事実によっても立証出来る。支那人で逮捕せられたものの数実に一万一千人、強制移住を命ぜられたものの数八千人といふ事実がこれである。即ちスターリンの真意は、使ふだけ使って弱り切った支那を、徐ろに、赤化の対象物としようとするに外ならないのである。 -- ゲンリフ・リュシコフ (元ソ連秘密警察幹部)『リュシコフ大将手記』 (1938年)
  • 國民政府は旣に地方の一政權に過ぎず。然れども、尙ほ同政府にして抗日容共政策を固執する限り、これが潰滅を見るまで、帝國は斷じて矛を收むることなし。-- 第二次近衛声明(1938年)
  • 政府は本年再度の聲明に於て明かにしたる如く、終始一貫、抗日國民政府の徹底的武力掃蕩を期すると共に、支那に於ける同憂具眼の士と相携へて東亞新秩序の建設に向つて邁進せんとするものである。[...]日滿支三國は東亞新秩序の建設を共同の目的として結合し、相互に善隣友好、共同防共、經濟提携の實を擧げんとするものである。 -- 第三次近衛声明(1938年)
  • 八・一宣言は支那、特に中国共産党の政策の一大転換を公的に表明した歴史的宣言であると共に、それが西安事件と並んで、今次事変の二つの導火線であり、ある意味において近代東洋史の上にも記憶さるべき事実である。 -- 朝日新聞社中央調査会『朝日東亞年報 昭和十三→十六年版』P.609 (1941年)

日中戦争後編集

  • 私は日本の友達と対談した。彼らは言った。「日本帝国の軍隊が中国を侵攻したことを遺憾に思う。」私は彼らに言った。「いいえ、もしあなたの帝国軍が中国の半分を占領しなければ、中国の人々はあなたに対して団結しなかっただろうし、我々は今日政権を握っていなかっただろう。」
    "「我曾经跟日本朋友谈过。他们说,很对不起,日本皇军侵略了中国。我说∶不!没有你们皇军侵略大半个中国,中国人民就不能团结起来对付你们,中国...就夺取不了政权!」"
    毛沢東 日本社会党佐々木更三・黒田寿男・吉川兼光訪中団との会談(1964年7月10日)