村山富市

日本の政治家、第81代日本国内閣総理大臣 (1924-)

村山富市 (むらやまとみいち, 1924年3月3日-)。八十一代内閣総理大臣。社会党出身。

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出典の明らかなもの

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村山内閣にて

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  • 私は、日米安全保障体制を堅持しつつ、自衛隊については、あくまで専守防衛に徹し、国際情勢の変化を踏まえてそのあり方を検討し、必要最小限の防衛力整備を心がけてまいります。
    • 第130回国会 施政方針演説 平成06年07月18日
  • 私としては、専守防衛に徹し自衛のための必要最小限度の実力組織である自衛隊は、憲法の認めるものであると認識するものであります。同時に、日本国憲法の精神と理念の実現できる世界を目指し、国際情勢の変化を踏まえながら、国際協調体制の確立と軍縮の推進を図りつつ、国際社会において名誉ある地位を占めることができるように全力を傾けてまいる所存でございます。
  • 冷戦の終結後も国際社会は依然不安定要因を内包している中で、我が国が引き続き安全を確保していくためには日米安保条約が必要であると考えております。新政権のもとにおいても日米安保体制の意義と重要性を認識しており、先般のナポリ・サミットにおける日米首脳会談では、私から、かかる認識を踏まえて日米安保体制を引き続き堅持していく旨をクリントン大統領に表明した次第でございます。
    • 参議院本会議 平成06年07月21日
    • 村山内閣にて、日本社会党は自衛隊合憲日米安保堅持とコペルニクス的方針転換。
  • その電力需要に対してどう供給をしていくかという面から考えてまいりますと、それだけのやはり電力量は必要なんですよ。それで私どもは、可能な限りエネルギー、クリーンな、被害の少ないエネルギーをどんどんどんどんやはり開発すべきだ、そのために努力をすべきだ、一方では。しかし、そうはいっても、それは右から左へすぐ間に合うものじゃありませんから、したがって、ある程度の原子力発電の造成もこれはやむを得ないのではないか。
    • 衆議院予算委員会 平成06年10月12日
    • 日本社会党の原発反対方針を転換。
 
Wikisource
ウィキソース村山談話に関する記事群があります。
  • わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。
    私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
  • 敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。
    同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。
    これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
  • 杖るは信に如くは莫し。
    • 以上は「戦後50周年の終戦記念日にあたって」いわゆる村山談話。その後の日本政府公式の歴史的見解とされる。
  • 私が、まあ初めての経験だし、何分早朝のことですから混乱もあったと思いますということは、現場の情勢がつかみ得なかったことの現状というものを申し上げたわけです。
    • 衆議院予算委員会 平成07年01月26日
    • 阪神大震災への対応のまずさについて「政府がとった措置は最善の策だった」との答弁を追及されて。
  • もしも死者が出たら白装束で遺族の下にお詫びに行く覚悟だ。

首相在任以降

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  • 「サミットを無難にこなすためなら、開催地は東京でも大阪、京都でもよかった。むしろ、東京から遠く離れ、今なお生活・産業基盤の整備がおくれている沖縄は避けるべきだという意見も当然あったはずです。ところが、君は毅然として、サミットの開催地を酷暑の沖縄に決断したのであります。思えば、この沖縄サミットに、君の政治家としての誠実さが象徴的にあらわれています。君は、学生時代から何度も沖縄に足を運び、本土防衛のために二十三万人が犠牲となり、戦後は、アメリカの施政権のもとに、本土から切り離され、苦しい中で本土復帰を訴えた姿を目の当たりにして、沖縄への思いを心に刻みつけたと聞いています。革新が、日米安保反対、沖縄の本土復帰を訴えて大規模なデモを組織した一九六〇年前後、君は保守の側で沖縄文化協会をつくり、沖縄問題への取り組みを始めていたのであります。サミット開催に当たって無難を大事にするなら、若いころからの思いに目をつぶることでした。だが、やすきにつくため信念をあいまいにし沖縄の人々の痛みを無視することは、君には到底できない相談でした。だから、困難を承知で、あえて沖縄サミットに踏み切ったのです。その熱い思いが沖縄の人々をどれほど勇気づけているかは、立場こそ違え、長年沖縄問題に取り組んできた私には痛いほどわかります。七月二十一日から二十三日にかけて沖縄を訪れる先進国の首脳たちは、亜熱帯の美しい海、高い空、濃い緑、それに豊かな文化と人々の優しい人情に目をみはることでしょう。多くのマスコミが沖縄を全世界に報道することで、工業国の印象が強い日本が実は多様な歴史と文化を持った国であることを、改めて認識し直すに違いありません。そして、あの美しい沖縄で苛烈な戦いがあった歴史に思いをはせるとき、世界の平和に重要な責任を有している先進国の首脳たちは、平和のたっとさを改めて心に刻むはずです。君は、早稲田大学雄弁会に属していたが、決して多弁ではなかった。でも、朴訥な語りは、人々の心にしみ込む独特な説得力があった。もしも君が沖縄サミットを主催していたら、ホスト国の首相にもかかわらず、かなり控え目に沖縄を語ったことでありましょう。だが、君ならそれで十分だった。君の含羞を帯びた語りは、何物にも増して説得力を持ち、君は存在そのものが雄弁だった。そんな君の姿を見ながら、多くの国民は沖縄の痛みを改めて自分の痛みと感じたに違いない。今となってはかなわぬ夢となってしまいましたが、沖縄に集まる首脳たちの輪の真ん中に、どうしても君にいてほしかった。この沖縄サミットだけは君の手で完結させてほしかった。それが、悔やんでも悔やみ切れない思いとなって、私の心に大きなひっかかりとなっているのです。」
    • 小渕恵三の弔辞。
  • しまいには首相までさせられた。
    • 政界引退時のパーティにて