毛沢東

中国の政治家、思想家、初代中華人民共和国国家主席 (1893-1976)

毛 沢東(もう たくとう、1893年〜1976年)は中国の政治家・思想家。中国共産党の指導者で中華人民共和国の建国者。

毛沢東

記されたもの 編集

  • 南京で殺人が少な過ぎる、南京でもっと殺すべき。
    "「南京是一個50萬人口的大城市,國民黨的首都,應殺的反動分子似不止2000餘人,南京殺人太少,應在南京多殺!」"
    炎黄春秋『毛沢東と第三回国家公安会議』(2014年5月)より。(1951年2月中旬「華東各市反革命分子を殺す承認権を撤回の問題について饒漱石への電報」)
  • 俺ら中国の女性は要るか?一千万人をあげれるよ。
    "「你要不要我们中国妇女?我们可以给你一千万。」"
    1973-76年の米中外交に関する米国務省の外交文書 1973年2月17日ヘンリー・キッシンジャーとの会談で
  • 中国人民革命成功後は、外蒙モンゴル共和国はその自己の意志に依って自動的に中国連盟の一部となるであらう。囘チベット人民も同様に自治共和国を組織して中国連邦に参加するであらう。
    外務省情報部『中国共産党一九三七年史』(1938年6月) P.388より。「B 毛沢東会見記 (エドガア・スノウ)」内。
  • 我等は普選を主張する。普選のみが民意を徹底的に表現するからである。臨時国民大会は過渡的手段である。何となれば、緊急状況下に従容たる選挙は許されない。現在比較的民意を代表し得るのは孫中山先生在命当時の主張により、政党、軍隊、民衆団体より、夫々代表を選出することである。この方法は勿論普選と異っている。我等は必ず普選を達成せねばならぬがこの方法は普選に至る橋梁である。しかしこれは目下最も好き方法である。
    外務省情報部『中国共産党一九三七年史』(1938年6月) P.426より。「C 毛沢東と語る(アグネス・スメドレー)」内。
  • 私は日本の友達と対談した。彼らは言った。「日本帝国の軍隊が中国を侵攻したことを遺憾に思う。」私は彼らに言った。「いいえ、もしあなたの帝国軍が中国の半分を占領しなければ、中国の人々はあなたに対して団結しなかっただろうし、我々は今日政権を握っていなかっただろう。」
    "「我曾经跟日本朋友谈过。他们说,很对不起,日本皇军侵略了中国。我说∶不!没有你们皇军侵略大半个中国,中国人民就不能团结起来对付你们,中国...就夺取不了政权!」"
    日本社会党佐々木更三・黒田寿男・吉川兼光訪中団との会談(1964年7月10日)
  • 一些わずかの同志は日本が地をむるところ少くばそのほどものであり、のちさい來たりて統一認識することを認為かんがえてゐる:日本が多く地をむるところ,才が國を愛さしめ。否則さもなくば便すぐかわりて蔣介石の國を愛してしまふ。國の中は蔣、日、我、三國こころざしの國を有す。」
    一些同志認為日本占地越少,越好後來才統一認識讓日本多占地才愛國,否則便成愛蔣介石的國了。國中有國:蔣、日、我,三國志。
    1959年廬山會議での発言。『廬山會議實錄』より

非公式に語ったとされることば 編集

  • は降るもの、娘は嫁に行くもの。しかたがないだろう。林彪が逃げたければ、行かせてやるがいい。撃ってはならぬ。
    天は雨くだすをもとめ,娘は人に嫁ぐをもとむ。す法あらざるでしょう。林彪がにげるをもとむは,他に随いぬことでしょう。打つことをもとまず。
    天要下雨,娘要嫁人。没办法吧。林彪要跑,随他去吧。不要打。
    林彪事件に際して。李志綏『毛沢東の私生活』所収。
  • 私は右派と取引するのが好きなのだよ。右派は本音でものを言う。左派のように心と口が違い、言うこととすることが違うということがない。
    我は右派とともない交道を打つことを喜歡す。右派は実話を話す。左派の心口不一、はなことおこなことが不一様であることとておらず。
    我喜欢跟右派打交道的。右派讲实话。不像左派心口不一,说的和做的不一样。
    ニクソン米大統領訪中に際して。李志綏『毛沢東の私生活』所収。
 
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