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日本の政治学者、文学者
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五来欣造

日本の政治学者。

『雄弁』 「日米戦ふの日ありや否や―本誌主催学生大討論会」(1930年, 8月号)

  • 此討論は純学術的の討論であります。従来の擬国会には色々な方法がありますが、政党に分けて大臣を設けてやると云ふことは一種の議会の真似でありまして、中には遂に議会の暴力沙汰などを模倣するやうな悪風習になりますから、どうしても是からの討論会は全く英国のケンブリツヂ、オツクスフオードに於て採用されて居る純粋なるデベート、学術的なる討論の形を採ることが最も必要である。

『ファッショか共産主義か』 (1932年)

  • ファッショとは階級的の利己主義に対する弾圧であって、国民経済の統一と、階級の調和を行うものであるとこう言うことができる
  • ヨーロッパは無産階級の利己主義、即ち世界大戦以来、労働者の勢力、無産階級の勢力が余りに強くなって、資本を食い荒らして遂に行き詰まった。これに対して反動的に起こったものは今日のファッショ運動である。そういう意味においてファッショは、階級的利己主義に対して、国民本位の政治、即ち全体主義を主張している次第である
  • 階級の利益だけを計れば、国の窮乏となって、労働階級それ自身も、又遂に衣食の欠乏を来すという事実を、我等はかのロシアにおいて現実に見るのである

『文明一新の先駆イタリヤ』 (1933年)

  • ファッショの正面の敵はマルクス主義であり、共産主義である。マルクスの唯物主義は人類の文明全体を崩壊に帰せしめ、唯その物質的なる私慾を遂げんが為に、伝統的なる国家を破壊し、宗教を破壊し、家族を破壊し、道徳を破壊し、所有権を破壊せんとする。その恐るべき破壊力が彼等ファッショを立たしめたる根本原因なのである。言はばファッショは人類の社会保存力の自然発生である。
  • ファッショは如何なる国に於ても共産主義と戦ふべき運命におかれている。否ファッショの発生こと、国家生活を脅すところの共産主義を撲滅することを目的としたものである。だから若し共産主義が継続するならば、これと戦はんが為にファッショも亦常に継続するであらう。若し共産主義が亡びるならば、ファッショは遂に存在の理由を失ひ、自ら滅亡の運命を辿るであろう。

『政治思想』 (1934年)

  • この政治理想の研究といふことは、非常に大切なことであるが、その研究をなすものが即ち政治哲学である。換言すれば、政治哲学の対象は政治理念である。新たなる政治理想を提出する学説は、それは一つの政治哲学である。昔から或る政治理想を実現するために努力してゐる国家がありといふならば、必ずその国に政治哲学がなければならぬ。かういふ意味から、西洋の各政体に各々その政治哲学がある。
  • 元来性悪論者は常に専制主義に終り、性善論者は常に自由主義に終る。
  • 現代に於ける社会革命の脅威が、世界を支配して居るのも、等しくこれ資本主義に現れたる上流階級の利己主義にその原因を発する。従ってその救済策も亦、その資本家階級に犠牲を説き、義務を教へることに在る。これ仏蘭西に起った社会連帯主義の主張の精神であって、今日に於てこの主張が最も時弊に適中するのは之が為である。
  • この上級階級に義務を教へると云ふ点が、儒教と社会連帯主義の共通点であって、これ以外に今日の革命主義の脅威に対して、世界を救ふべき良剤は無いのである。近時世界対戦後に於て、儒教の研究が再び西洋に擡頭し来つたといふ事は、要するに西洋文明の権利主義、利己主義に対する東洋文明の義務心、殊に上層階級の犠牲を教へる特長に着眼しつつある世界の傾向を暗示するものではあるまいか。