「五来欣造」の版間の差分

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* 基督教は外部的に神より来る霊的感化に訴へ、儒教は寧ろ人の内部理性の啓発にその力を用ひる。前者は宗教で後者は哲学である。
* 欧州に於て救貧行政が政府の事務の一部として現はれたのは比較的最近のことで、英国に於てはエリザベスの時からである。然しそれも要するに慈善に過ぎないのであって、真の社会政策は十八世紀に至り、初めて啓蒙専制主義の学者が之を主張したものである。例えばライブニッツは国家の強制保険を説き、フォルフは労働の権利を宣言し、オルバックは国民工場の設立を説き、フレデリック大王は之等の提議を或る程度まで実行した人である。ビスマークがその国家社会主義を以て、社会政策を実行したのは、プロシヤの伝統と、フレデリック大王の事業を継承したものであると説くのは大いに興味あることである。果してその間に儒教の社会政策の観念が影響して居るのではあるまいか。
* 家族は単にその構成員の安全を確保し、その慰安を求むる場所ではなくて、国家の教化機関であり、学校である。即ちこの学校に於ては、各人は国家の機能に貢献する能力を取得するのであって、その能力とは即ち道徳是である。要するに、家庭の生活は公共的生活であって、その構成員の関係は公共的関係である。従って東洋に於ては総べてが礼に依って支配せられ、慈愛よりは訓練が更に多く行はれるのは決して怪しむに足りない。即ち儒教の家庭は常に意志の緊張を必要とする処であって、西洋の家庭が慰安休息の場所であると云ふのとその類を異にして居る。故に欧州には幸福あり、極東には秩序ありと言ひ得るであらう。
* 儒教を以て単純なる専制主義となすのは皮相の見解であって、君主の徳を以て政治の本であると考へる思想の根底には、上先づその義務を尽せば下も亦その義務を尽さんとの社会連帯主義の原理が含まれて居ることが明白である。唯それが上下の階級に別れたる連帯関係であると云ふ点に於て、今日の平等なる社会に行はるゝ連帯関係と相違する丈けである。
* 私は常に思ふ。西洋に於て斯くの如く、階級闘争と之に伴ふ社会主義の発生が、その社会的平和を撹乱しつゝあるに反し、何が故に東洋に於ては、斯の如く階級調和の実が数千年の文化を支配し、少しも階級闘争と、社会主義の痕跡が無かったか。西洋の歴史はマルクスが喝破した如く、「人類のこれ迄の歴史は階級闘争の歴史」なる事が真実であるのに、何故に東洋歴史は階級協力の歴史であったか。斯うした東西両文明の差別の秘密は、要するに西洋に於ては、上層階級下層階級共に権利を主張して利己の外何者も無かったが、之に反して東洋に於ては、上下その義務を重んじ、殊に上層階級の下層階級に対する義務を説く事厳粛であったからである。