「ヨーゼフ・ゲッベルス」の版間の差分

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*「彼は、それなくしてはベルリンの状態を処置することができない二つの特性を持っている。すなわち一つは知性であり、他の一つは雄弁である。」(1926年のゲッベルスのベルリン大管区指導者任命についての[[アドルフ・ヒトラー]]の言葉)<ref name="第三帝国と宣伝ゲッベルスの生涯59">『第三帝国と宣伝 ゲッベルスの生涯』59ページ</ref>
*「[[ヘルマン・ゲーリング|ゲーリング]]や[[ハインリヒ・ヒムラー|ヒムラー]]や[[w:マルティン・ボルマン|ボルマン]]と違って、彼は毎日の出来事にある程度距離を置くことができた。彼は自己中心的でもなく、臆病者でもなかった。彼はヒトラーに自分の考えを述べた。戦争を終えるべきだと考えた時もそうだった。私から見ればゲッベルスはプロパガンダの天才だった。ヒトラーが彼を作ったように、彼がヒトラーを作った。まさしくそう言えると思う。彼は非常に複雑な性格だった。そして完全に冷淡だった。国家社会主義の最もおぞましい部分、つまりドイツのユダヤ人に対する政策は、彼が推進力になった。」(1979年、[[w:アルベルト・シュペーア|アルベルト・シュペーア]])<ref name="ヒトラーの共犯者上31">『ヒトラーの共犯者 上』31ページ</ref>
*「ゲッベルスとゲーリングは、もちろん陰謀もめぐらしてはいたが、粗暴ではなかった。この二人は非常に知的だった。ただゲーリングは落していた。けれどもそれはもしかしたら病気のせい、モルヒネ中毒のせいかもしれなかった。もう知るすべもないが。ゲッベルスは腐っていなかった。ただ恐ろしいほどに危険な男だった。」(1979年、アルベルト・シュペーア)<ref name="ヒトラーの共犯者上90">『ヒトラーの共犯者 上』90ページ</ref>
*「彼は反ユダヤ主義の最も強硬な代表者だった。彼はマスメディアを利用して反ユダヤ主義的な報道をすることが、権力者になる大きなチャンスと思っていた。彼がユダヤ人に対して根深い憎悪を抱いていたかどうかは疑問だ。彼はいい加減な日和見主義者なので、何に対しても、好意的ないし敵対的な根深い感情など持たないと思う。(略)[[w:ユリウス・シュトライヒャー|シュトライヒャー]](ゲッベルスと並んで反ユダヤ主義プロパガンダで知られる人物)はゲッベルスと比べれば従順だった。シュトライヒャーは半分頭がおかしいだけだが、一方ゲッベルスは不道徳で狡猾で危険だった。ゲッベルスとはいかなる議論もできない。ゲッベルスには誠意のかけらもないので議論しても無駄なのだ。」(空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング。ニュルンベルク裁判で拘禁中にアメリカの精神分析医レオン・ゴールデンソーンに語った言葉)<ref name="ニュルンベルク・インタビュー上105">『ニュルンベルク・インタビュー 上』105ページ</ref>
*「私は、一次大戦で[[w:鉄十字章|鉄十字章]]をもらったユダヤ人は[[w:ニュルンベルク法|ニュルンベルク法]]から除外すべきだと提案したが、却下された。ゲッベルスは、ユダヤ人は自分達とは違うと思っていた。あるいは少なくとも、そう主張していた。彼は大嘘つきなので内心ではどう思っていたのか、私にはわからない。あの頃、私とヒトラーののつながりは政治の面では強かったが、個人的な面ではヒトラーとゲッベルスのつながりのほうが強かった。私とゲッベルスを比べると、ヒトラーとの関係で違っていたのは、私は会議でヒトラーとよく話したが、ヒトラーは夜通しゲッベルス一家とともに過ごしたという点だ。ヒトラーとゲッベルスの結びつきは強く、おそらく私が思っている以上に、あの脚の曲がった狂信者から政治の面でも影響を受けていたのだろう。」(ヘルマン・ゲーリング。同上)<ref name="ニュルンベルク・インタビュー上110">『ニュルンベルク・インタビュー 上』110ページ</ref>