「藤原忠通」の版間の差分

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+藤原基俊和歌(百人一首)
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'''[[w:藤原忠通|藤原忠通]]'''(ふじわら の ただみち、1097年‐1164年)は、平安時代後期から末期の日本の公卿。従一位・摂政、関白・太政大臣。通称は'''法性寺関白'''(ほっしょうじ かんぱく)。千載和歌集・小倉百人一首では'''法性寺入道前関白太政大臣'''。「忠通」は[[大江匡房]]の名付による。1121年より摂関歴37年は高祖父・[[w:藤原頼通|藤原頼通]]の50年に次ぐ。忠通が藤氏長者となった時は既に摂関政治は形骸化していたが、[[w:鳥羽天皇|鳥羽院]]や[[w:平氏|平氏]]といった院政勢力と結びつき、[[w:保元の乱|保元の乱]]に続く、[[w:平治の乱|平治の乱]]でも実質的な権力者・[[w:信西|信西]]とは対称的に生き延びた。晩年は[[後白河天皇|後白河院]]と対立し不遇であったが、忠通の直系子孫のみが[[w:摂家|五摂家]]として原則的に明治維新まで摂政・関白職を独占する事となった。
 
==引用==
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*秋の月たかねの雲のあなたにて晴れゆく空の暮るる待ちけり
**『千載和歌集』収録。
 
==藤原忠通に関する引用==
*契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり--[[藤原基俊]]
**『千載和歌集』『小倉百人一首』収録。
**詞書「律師光覚維摩会の講師の請を申しけるを、たびたび洩れにければ、法性寺入道前太政大臣(注:藤原忠通)に恨み申しけるを、しめぢの原のと侍りけれども、又その年も洩れにければ、よみてつかはしける」。光覚は基俊の息子。「しめぢの原の」は清水観音の歌と伝わる「なほ頼めしめぢが原のさせも草我が世の中にあらむかぎりは」を引歌として任せておけという意を返事したもの。
 
==外部リンク==