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*運命がカードを混ぜ、我々が勝負する。
 
==『余録と補遺』==
* 哲学するために最初に求められる二つの要件は、第一に、心にかかるいかなる問いをも率直に問い出す勇気をもつということである。そして第二は、自明の理と思われるすべてのことを、あらためてはっきりと意識し、そうすることによってそれを問題としてつかみ直すということである。最後にまた、本格的に哲学するためには、精神が本当の閑暇をもっていなくてはならない。精神が何かの目的を追求して、そのために意志に誘惑されるというようなことがなく、直感的世界と彼自身の意識とが彼にさずけてくれる教示を余念なく受け入れるのでなくてはならない。
:  これに反して、哲学教授たちは、自分自身の個人的な利害得失やそれへの手づるなどに気をくばっている。そこに彼らの本意があるわけである。それゆえに、彼らにはおびただしい歴然たる事実がまるで眼に入らず、それだけでなく、せめて哲学の諸問題についてでも、本気になって省察するということがただの一度もないのである。<ref>[[w:アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウエル]]『知性について-他四篇』 [[w:細谷貞雄|細谷貞雄]]訳([[w:岩波書店|岩波書店]]〈[[w:岩波文庫|岩波文庫]]〉、[[w:1961年|1961年]])11ページ</ref>
*長遠な時代とあらゆる国民から、国籍の差別なしに選び抜かれた精華たる思想家たちの賞讃こそ、哲学者に与えられる報いである。大衆はやがて彼の名を、権威まかせに尊敬するようになってゆく。それに応じて、そして哲学の歩みが全人類の歩みに及ぼすゆっくりとした、しかし深い感化のゆえに、哲学者たちの歴史は数千年以来、列王の歴史と並びすすみ、そして後者の百分の一ほどのわずかな名をかぞえているにすぎない。してみれば、その中でわが名のために不朽の位置をかちうるということは、やはり偉大なことなのである。<ref>[[w:アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウエル]]『知性について-他四篇』 [[w:細谷貞雄|細谷貞雄]]訳([[w:岩波書店|岩波書店]]〈[[w:岩波文庫|岩波文庫]]〉、[[w:1961年|1961年]])14ページ</ref>
* 哲学の歴史を研究して哲学者になれると思っている人々は、むしろその哲学史から、哲学者も詩人とおなじく天賦にしてはじめて成るものであるということを、しかもその誕生が詩人よりも遥かに稀であるということを学んだ方がよいであろう。<ref>[[w:アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウエル]]『知性について-他四篇』 [[w:細谷貞雄|細谷貞雄]]訳([[w:岩波書店|岩波書店]]〈[[w:岩波文庫|岩波文庫]]〉、[[w:1961年|1961年]])18ページ</ref>
* 哲学において、前提のない方法と称されるものは、すべてまやかしである。なぜなら、ともかく何かを与えられたものとみなさなければ、どこからも出発しようがない。「われに立所を与えよ」という有名な言葉は、つまりこのことを言っているのであって、これは人間のあらゆる活動の必須条件であり、哲学的思索のはたらきさえも、この例にもれるものではない。けだし、われわれ人間は、肉体的にも精神的にも宙に浮かんでいることはできないのである。<ref>[[w:アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウエル]]『知性について-他四篇』 [[w:細谷貞雄|細谷貞雄]]訳([[w:岩波書店|岩波書店]]〈[[w:岩波文庫|岩波文庫]]〉、[[w:1961年|1961年]])58ページ</ref>
* 自分の全能力をある特殊科学にささげるためには、この学問への大きな愛が必要であるが、しかしまた、他のすべての学問に対する大きな無関心も必要である。なぜなら、これらすべての学問において無知のままでいるという条件のもとで、はじめてひとつの学問に専念しうるからである。ひとりの女をめとる人が、他のすべての女に断念するのと同様である。それゆえに、第一級の精神の持ち主たちは、決して特定の専門科学に身をささげないであろう。全体への洞察を、あまりにも深く心にかけているからである。彼らは、将軍であって隊長ではなく、オーケストラの指揮者であって演奏者ではない。<ref>[[w:アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウエル]]『知性について-他四篇』 [[w:細谷貞雄|細谷貞雄]]訳([[w:岩波書店|岩波書店]]〈[[w:岩波文庫|岩波文庫]]〉、[[w:1961年|1961年]])85ページ</ref>
* 独創的で非凡な、場合によっては不朽でさえあるような思想を抱くためには、しばらくの間世界と事物とに対して全然没交渉になり、その結果、ごくありふれた物事や出来事さえも、まったく新しい未知の姿で現われてくるというようにすれば、それで足りるのである。というのは、まさにこのことによって、それらの物事の真の本質が開示されるからである。しかしながら、ここで求められる条件は、困難であるどころか、決してわれわれの自由にならないものなのであり、ほかでもなく、天才のはたらきなのである。<ref>[[w:アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウエル]]『知性について-他四篇』 [[w:細谷貞雄|細谷貞雄]]訳([[w:岩波書店|岩波書店]]〈[[w:岩波文庫|岩波文庫]]〉、[[w:1961年|1961年]])134ページ</ref>
*学者とは、多くのことを学んだ人のことであり、天才とは、何人からも学ばなかったことをはじめて人類に教える人のことである。それゆえに、一億人中にようやく一人というような偉大な精神たちは、人類の灯台であって、これらがなければ、人類は怖るべき誤謬と荒廃の果てしない大海に没してしまうであろう。<ref>[[w:アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウエル]]『知性について-他四篇』 [[w:細谷貞雄|細谷貞雄]]訳([[w:岩波書店|岩波書店]]〈[[w:岩波文庫|岩波文庫]]〉、[[w:1961年|1961年]])135ページ</ref>
* むしろ、彼が真価のある偉大非凡なものを生みだすことができるのは、自分と同時代の人々の流儀や思想見解などをまったく無視し、彼らが非難するものを平然として創造し、彼らが誉めそやすものを軽蔑するからにほかならないのである。この高慢さをぬきにしては、偉大な人物というものは、ありえない。そしてたとえ、彼の生活と活動とが、彼の真価を認識しえない時代にめぐり合わせたにしても、彼はどこまでも彼自身なのであって、そういう境遇におかれた場合の偉大な人物の姿は、みじめな宿場で一夜を過ごさなくてはならなくなった高貴な旅人に似ている。夜が明けると、彼は快活に旅をつづけていく。<ref>[[w:アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウエル]]『知性について-他四篇』 [[w:細谷貞雄|細谷貞雄]]訳([[w:岩波書店|岩波書店]]〈[[w:岩波文庫|岩波文庫]]〉、[[w:1961年|1961年]])140ページ</ref>
* 人間の力量は、何につけても規模が限られているものであるから、いかに偉大な精神でも、このように偉大になるためには、どこか──知性においても──決定的な短所を具え、すなわちその点では、かなり平凡な頭脳にさえおくれをとるという方面をもつという制約をまぬかれない。もしもこの方面で彼が優れた性質を具えていたら、それは彼の卓越した能力の邪魔になっていたかも知れないのである。
 けれども、特定の個人についてさえ、その短所を一言で明示することは、なかなかむずかしいことであろう。それはむしろ、間接的な言いまわしで表現しうるものなのである。たとえば、プラトンの弱味は、まさにアリストテレスの強みの存するところにあり、またその逆も真である。カントの短所は、ゲーテが偉大であった点に存し、またその逆も真である。<ref>[[w:アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウエル]]『知性について-他四篇』 [[w:細谷貞雄|細谷貞雄]]訳([[w:岩波書店|岩波書店]]〈[[w:岩波文庫|岩波文庫]]〉、[[w:1961年|1961年]])145ページ</ref>
* 人間は、何かあるものを崇拝したがるものである。ただ、彼らの崇拝は、たいていお門違いのところで立ちどまっていて、やがて後世の人々がその間違いを直すまで、そこに停滞しつづける。そして、この是正がおこなわれたあとでも、教養大衆が天才に払う敬意は、ちょうど信徒たちが彼らの聖者にささげる崇拝のように、とかくつまらぬ遺物礼拝に変質するものである。<ref>[[w:アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウエル]]『知性について-他四篇』 [[w:細谷貞雄|細谷貞雄]]訳([[w:岩波書店|岩波書店]]〈[[w:岩波文庫|岩波文庫]]〉、[[w:1961年|1961年]])146ページ</ref>
* “二つの歴史”がある。すなわち“政治”史と、“文学”および芸術の歴史である。第一の歴史は“意志”の歴史であり、第二の歴史は“知性”の歴史である。したがって政治史は我々に不安を与えるばかりか、恐怖心までもひきおこす。政治史は大量の不安、困窮、詐欺、残忍な殺人に満ちている。これに反して文学史は、孤独の智者のように喜ばしい空気、晴朗な空気に満ちている。たとえ迷路を描く場合があっても、その空気に変わりはない。文学史の主要部門は哲学史である。哲学史は本来文学史の基音で、他の部門の中へ鳴り響いて行く。つまり他の文学部門の主義、主張を基本的に指導するのである。だがそれだけではない。哲学史は世界を支配する。したがって真の意味の哲学は、もっとも強力な現世的権力でもある。けれども、その支配作用の歩みははなはだゆるやかである。<ref>[[w:アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウエル]]『読書について-他二篇』 [[w:斎藤忍随|斎藤忍随]]訳([[w:岩波書店|岩波書店]]〈[[w:岩波文庫|岩波文庫]]〉 改版[[w:1983年|1983年]])140ページ</ref>
==『意志と表象としての世界』==
*哲学的思想は、ただその思想を創始した人自身から受けとることができるだけである。だから哲学を勉強したくてたまらない人は、哲学の不滅の教師を、その教師の著作それ自体という、もの静かな聖殿の中に探したずねなければならない。不滅の教師ともいうべきほんものの哲学者なら誰でもいい、その人の主要な章を読めば、それについて凡俗の頭脳が作製した冗漫で斜視的な解説文よりも百倍も多くの洞察が、その人の教えについて得られるであろう。さらにつけ加えていえば、凡俗の頭脳はたいてい深くそのときどきの流行哲学にとらわれ、自分らの思いこみにとらわれているものなのである。それなのに、まったく呆れたことだが、読者階層はじつにきっぱりと、他人の手になる解説祖述には好んで手を出したがるのである。こういう場合、実際には、親和力がはたらいているらしく、平凡な人は親和力のおかげで、自分に似た人に牽きつけられるのであり、したがってまた偉大な精神の持主が語ったことですら、自分に似た人から聞き出したがるのである。ひょっとするとこのことは、子供たちが、一番よく学ぶのは自分の仲間からであるという、相互教育のシステムと同じ原理に基づいているのかもしれない。(一八四四年二月、第二版への序文)<ref>[[w:アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウアー]]『意志と表象としての世界Ⅲ』 [[w:西尾幹二|西尾幹二]]訳([[w:中公クラシックス|中公クラシックス]]、[[w:2004年|2004年]])275〜276ページ</ref>
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* 『知性について-他四篇』 [[w:細谷貞雄|細谷貞雄]]訳、[[w:岩波書店|岩波書店]]〈[[w:岩波文庫|岩波文庫]]〉、[[w:1961年|1961年]] ISBN 400336323X
* 『読書について-他二篇』 [[w:斎藤忍随|斎藤忍随]]訳、[[w:岩波書店|岩波書店]]〈[[w:岩波文庫|岩波文庫]]〉 改版[[w:1983年|1983年]]、ISBN 4003363221 、ワイド版[[w:2013年|2013年]]
* 『意志と表象としての世界』([[w:西尾幹二|西尾幹二]]訳 [[w:中公クラシックス|中公クラシックス]]全3巻[[w:2004年|2004年]]、元版「[[w:世界の名著|世界の名著]]」[[w:中央公論社|中央公論社]][[w:1980年|1980年]])
== 外部リンク ==
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