近松門左衛門

日本の江戸時代の文人、歌舞伎作者
近松門左衛門

近松門左衛門 編集

近松門左衞門

浄瑠璃 編集

『曽根崎心中』 編集

曾根崎心中

  • この世の名殘り、も名殘り。にゝ行く身をたとふればあだしが原の道の霜。一足づつに消えて行くの夢こそ哀れなれ。あれ數ふればの、七つの時が六つ鳴りて、殘る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め。寂滅為楽と響くなり。鐘ばかりかは、草も木も。空も名残と見上ぐれば、雲心なき水の音、北斗は冴えて影映る星の妹背の天の川、梅田の橋を鵲の橋と契りていつまでも、われとそなたは女夫《めおと》星、必ず添うと縋り寄り、二人が中に降る涙、川の水嵩《みかさ》も増さるべし。--「道行の段」

『冥途の飛脚』 編集

1711年。

  • 翠帳紅閨に枕並べし閨のうち、馴れし衾の夜すがらも、四ツ門の跡夢もなし、さるにても我が夫の秋より先に必ずと、あだし情の世を頼み、人を頼みの綱切れて、夜半の中戸も引き替へて、人目の関にせかれ行く。昨日のままの鬢つきや、髪の髷目のほつれたを、わげて進じよと櫛を取り、手さへ涙に凍ゑつき、冷えたる足を太股に、相合炬燵、相輿の膝組み交すかごのうち、狭き局の睦言の過ぎしその日が思はれて、いとゞ涙のこぼれ口、比翼煙管の薄煙り、霧も絶えだえ晴れ亙り、麦の葉生えに風荒れて、朝出の賤や火をもらふ、野守が見る目恥づかしとかご立てさせて暇をやる。価の露の命さえ惜しからぬ身は惜しからず、惜しむは名残りばかりぞや。--「道行相合かご」

『心中天の網島』 編集

頃は十月十五夜の 月にも見へぬ身の上は  心の闇のしるしかや 今置く霜は明日消ゆる  はかなく譬えのそれよりも 先に消え行く 閨の内  いとしかはひと締めて寝し 移り香も なんとながれの蜆川 西に見て 朝夕渡るこの橋の 天神橋はその昔 菅丞相と申せし時 筑紫へ流され給ひしに  君を慕ひて大宰府へ たった一飛び梅田橋  あと追ひ松の緑橋 別れを嘆き 悲しみて  後にこがるる桜橋 今に話を聞渡る 一首の歌の御威徳 かかる尊きあら神の 氏子と生れし身をもちて そなたを殺し 我も死ぬ 北へあゆめば 我が宿を一目に見るも見返らず 子供の行方 女房の あはれも胸に押し包み 南へ渡る橋柱 越ゆれば到る彼の岸の 玉の台に乗りをへて 仏の姿に身の成橋 衆生済度がままならば 流れの人の此の後は 絶えて心中せぬやうに  守り度いぞと 及び無き 願いも世上のよまい言--「道行文」

演劇論 編集

  • 藝といふものは實と虚との皮膜の間にあるもの也。
  • 趣向も此ごとく、本の事に似る内に又大まかなる所あるが、結句藝になりて人の心のなぐさみとなる。
穂積以貫『難波土産』に近松の芸道論として伝わる。いわゆる「虚実皮膜(ひにく)論」。