藤原道綱母
平安時代中期の歌人、文人 (936?–995)
藤原道綱母(ふじわら の みちつな の はは、936年頃 - 995年)は、平安時代中期の日本の歌人。藤原倫寧の娘。藤原兼家の妻の一人となり一子藤原道綱を儲けた。また、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取り養女にしている。兼家との結婚生活の様子などを『蜻蛉日記』につづった。小倉百人一首では右大将道綱母。
引用
編集和歌
編集『蜻蛉日記』上巻
編集- 消えかへり露もまだ干ぬ袖のうへに今朝はしぐるる空もわりなし
- 他『後拾遺和歌集』収録
- 『蜻蛉日記』には天暦八年(954年)九月に結婚した月末の歌とある。
- 歎きつつ独りぬる夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る
- 他『拾遺和歌集』『大鏡』『小倉百人一首』収録。
- 吹く風につけてもとはむささがにの通ひし道は空に絶ゆとも
- 他『新古今和歌集』収録。
- ささがには蜘蛛の古語。
- いかがせむ山の端にだにとどまらで心も空に出でむ月をば
- 『後拾遺和歌集』では下の句を「こころの空にいづる月をば」とする。
- 曇り
夜 の月とわが身のゆくすゑのおぼつかなさはいづれまされり- 『後拾遺和歌集』では初め二句を「くもる夜の月とわが身の行末と」とする。
- 絶えぬるか影だにあらば問ふべきをかたみの水は
水草 ゐにけり- 他『新古今和歌集』収録。
『蜻蛉日記』中巻
編集- 花に咲き実になりかはる世を捨ててうき葉の露と我ぞ
消 ぬべき- 他『玉葉和歌集』収録。
- 降る雨のあしとも落つる涙かなこまかに物を思ひくだけば
- 他『詞花和歌集』収録。『蜻蛉日記』詞書「五日、なほ雨やまで、つれづれと、『思はぬ山に』とかいふように、もののおぼゆるままに、尽きせぬものは涙なりけり」。
- 袖ひつる時をだにこそ嘆きしか身さへ時雨のふりもゆくかな
- 『続古今和歌集』では初句を「袖ぬれし」とする。
- 天禄二年(971年)九月末日詠。本項『蜻蛉日記』の節も参照。
『蜻蛉日記』下巻
編集- もろ声に鳴くべきものを鶯は
正月 ともまだ知らずやあるらむ- 『玉葉和歌集』収録。
その他
編集- 都人寝で待つらめやほととぎす今ぞ山辺を鳴きて過ぐなる
- 『拾遺和歌集』では下の句を「今ぞ山べをなきていづなる」とする(拾遺巻二102)。
- 家集後注「この歌は寛和二年歌合にあり」。
- 薪こることは昨日に尽きにしをいざ斧の柄はここに朽たさむ
- 『拾遺和歌集』『枕草子』「小原の殿の御母上とこそは」収録。小原の殿は道綱。
『蜻蛉日記』
編集本節の引用は物集高見監修、物集高量校註『校註日本文学叢書』第4巻、広文庫刊行会、1918年、国会図書館デジタルライブラリー[1]による。ただし旧漢字は新字体に改め、仮名の省略記号などは開いた。
- 斯く有りし時過ぎて、
世中 にいと物果 無 く、兎にも角にも着かで世に経る人ありけり。容貌 とても人にも似ず、心魂 も有るにもあらで、斯う物のやうにも有らであるも、道理 と思ひつつ、唯だ臥し起き明 し暮らす侭 に、世中 に多かる古物語 の端などを見れば、世に多かる空言 だにあり。人にも有らぬ身の上まで、書き日記 して、珍しき様 にもありなむ。天が下の人の品高き女と訪はむ例 にも為 よかしと覚ゆるも、過ぎし年月 頃の事も、覚束 なかりければ、然 ても有りぬべき事なむ多かりける。- 「蜻蛉日記」上巻[2]
- 書き出しの一節。
藤原道綱母に関する引用
編集- この母君きはめたる和歌の上手におはしければ、この殿の通はせ給ひけるほどのこと、歌など書き集めて、かげろふの日記と名づけて、世にひろめ給へり。
- 『大鏡』「藤原兼家伝」
注釈
編集- ↑ 物集高見監修. “校註日本文学叢書・第4巻”. 2015年11月16日 (月) 16:08 (UTC)閲覧。
- ↑ 物集高見監修. “校註日本文学叢書・第4巻”. p. 1. 2015年11月16日 (月) 16:08 (UTC)閲覧。