谷崎潤一郎 (1886年 - 1965年)

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谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう、1886年〈明治19年〉7月24日 - 1965年〈昭和40年〉7月30日)は、日本の小説家。

出典の明らかなもの

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  •  我といふ人の心はたゝひとりわれより外に知る人はなし。--『雪後庵夜話』
  •  兎に角此の「物臭さ」、「億劫がり」は東洋人の特色であつて、私は假りにこれを「東洋的懶惰」と名づける。
     ところでかう云ふ氣風は、佛教や老荘の無為の思想、「怠け者の哲學」に影響されてゐるのでもあらうが、實はそんな「思想」などに關係なく、もつと卑近な日常生活の諸相に行き渡つてゐるのであつて、その根ざしは案外に深く、われわれの氣候風土體質等に胚胎し、佛教や老荘の哲學は寧ろそれらの環境が逆に生み出したものであると考へる方が自然に近い。
     怠け者の「哲學」や「思想」だけなら、西洋にだつて必ずしもないことはあるまい。古代のギリシヤにはデイオゲネスのやうな一種の物臭太郎もゐたが、しかしそれも哲學的見地から出發したところの學者としての態度であつて、日本や支那に無數にころがつてゐる物臭人種の如く、ただ何んと云ふ理由もなくぐうたら丶丶丶丶に日を送つてゐたのではあるまい。あの時代の克己主義の哲學と云ふものは、消極的ではあるが、物慾を征服しようとする一念が強く、多分に努力的、意志的であつて、「解脱」とか、「眞如」とか、「涅槃」とか、「大悟徹底」とか云ふ境涯からは餘程かけ離れてゐるやうである。それから又、仙人だの隠者だのと云ふ者もないことはないが、彼等の多くは所謂「哲學者の石フイロソフアースストーン」を發見せんとするアルケミストの類であつて、恰も支那の葛洪仙人の如く、「無為」とか「怠け者」とか云ふよりは寧ろ「神秘」の觀念と結び付けられてゐるやうに想像される。
     近代に於いて「自然に復れ」と云ふ説を唱へたジヤン・ジヤツク・ルーソーの思想は、幾分老荘のそれに相通ふところがあると云はれるが、私は、實は、それこそ怠け者のためにまだ「エミール」一冊をすら讀んだことがないので何んとも云へない。しかしさう云ふ思想や哲學はどうであらうとも、實際の日常生活に於いて、西洋人は斷じて「物臭」でもなければ「怠け者」でもない。それは彼等の體質、表情、皮膚の色、服装、生活様式等、あらゆる條件からさうなつてゐるので、たまたま何等かの事情のために不潔や不規律を餘儀なくされることはあつても、東洋人が懶惰のうちに或る安らかな別乾坤を打開するやうな心持ちは、夢にも理解し得ないであらう。彼等は富める者も、貧しい者も、遊ぶ者も、働く者も、老人も、青年も、學者も、政治家も、實業家も、藝術家も、勞働者も、等しく進取的、活動的、奮闘的である點に於いて差別はない。
     「東洋人の精神的若しくは道德的と云ふのは果して何を意味するか。東洋人は浮世を捨てて山の中へ隠遁し、獨り冥想に耽つてゐるやうなのを聖人と云ひ、高潔の士と云ふ。しかし西洋ではそんな人間を聖人だとも高潔の士だとも思はない。それは一種のエゴイストに過ぎない。われわれは勇ましく街頭に出で、病める者に薬餌を與へ、貧しき者に物資を恵み、社會一般の幸福を増進する為めに身を犠牲にして働く人を、眞の道德家であると云ひ、さう云ふ仕事を精神的の事業と云ふのだ。」――と、大體かう云ふ趣意のことをジヨン・デユウイが書いてゐたのを讀んだことがあるが、これが西洋に於ける一般の考え方の標準、――常識であるとすれば、恐らく「怠ける」と云ふこと、「何もしないでゐる」と云ふことは、彼等の眼から見て惡德中の惡德であらう。われ〱東洋人と雖も、「怠けること」が「働くこと」より精神的だと極め込んでゐる譯ではないから、此のアメリカの哲學者の説に正面から反對する氣はないし、さう堂堂と開き直つて來られると挨拶のしやうにも困るのだが、いつたい歐米人の「社會のために身を犠牲にして働く」と云ふのはどんな場合を指すのだらうか。
     たとへば基督敎の運動に「救世軍」と云ふものがある。私はその事業なりそれに携はる人人に對して敬意こそ抱け、決して反感や惡意を藏する者ではない。しかしその動機の如何に拘はらず、ああ云ふ風に街頭に立つて激越な、早口な、性急な口調で説敎したり、自由廢業の援助に奔走したり、貧民窟を軒竝みに叩いて慰問品を贈つたり、一人一人行人の袂を捉へて慈善鍋への寄附をすすめビラを配ると云ふやうな、せせこましい、鎖々屑々たる遣り方は、不幸にして甚だ東洋人の氣風に合はない。それは理窟を超越した肌合ひの問題であつて、東洋人にはお互ひに解つてゐる筈の心理である。ああ云ふ運動を見せられると、われわれは足元から追ひ立てられるやうに忙しい氣持ちがするばかりで、少しもしんみり丶丶丶丶した同情心や信仰心が湧いて來ない。人はよく佛教徒の布敎や救濟の方法が、基督敎に比べて退嬰的なのを攻めるけれども、實はあの方が終局に於いて國民性に叶つてゐるのである。鎌倉時代の日蓮宗や蓮如時代の眞宗がいかに積極的、能動的であつたと云つても、歸するところは七字の題目や六字の名號にあつて、ああ云ふ風に現世的な枝葉のことにまで係はつてゐたのではあるまい。禪宗の道元の如きは「佛教のための人生であつて人生のための佛教でない」と云ふ風に考へてゐたらしい。基督敎とは千里の差があるやうに思ふ。--『倚松庵随筆』


 
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