顔回
(顔淵から転送)
顔回(がんかい、紀元前521年 - 紀元前481年[1])は、孔子(孔丘)の弟子。回は名(諱)。字は子淵(しえん)。ゆえに顔淵(がんえん)ともいう[2]。孔門第一の秀才として期待されていたが早世した。
引用
編集- 孔子が匡の街で難儀されたとき、顏淵は一行に遅れて所在が知れなくなっていた。再会して、孔子は云った「君が死んだかとおもったよ」。顏淵は云った「先生がおられるのに、どうして私が軽々しく死ねましょう」。--『論語』先進第十一・二十二節
- 子畏於匡、顏淵後。子曰、吾以女為死矣。曰子在、回何敢死。
- 顏淵が仁とはなにか尋ねた。孔子は云った「己に克ち、礼に帰るのが仁である。為政者が一日己に克ち礼に帰れば、天下が仁に立ち返るであろう。仁は己の実践から始まるもので、他から始まるものではない。顏淵は云った「とくに注意すべきことをお伺いできますか」。孔子は云った「非礼なものを見ないように。非礼なものを聴かないように。非礼なことをいわないように。非礼なことを行わないように。顏淵は云った「いたらないわたくしではございますが、お言葉を守っていきたいと存じます」。
- 顏淵問仁。子曰、克己復禮爲仁。一日克己復禮、天下歸仁焉。爲仁由己。而由人乎哉。顏淵曰。請問其目。子曰、非禮勿視。非禮勿聽。非禮勿言。非禮勿動。顏淵曰、回雖不敏。請事斯語矣。
顔回に関する引用
編集- 孔子が云った「私が回と一日中話をしても、私の考えと違うことを言わないので愚かにみえる。私の前から退出して回がひとりでしていることをみれば、私が気付かされることも多い。回は愚かではないよ」
- 子曰、吾與回言終日、不違如愚。退而省其私、亦足以發。回也不愚。--『論語』為政第二・九節
- 顔回は一を聞いて十を知りますが、私は一を聞いて二を知るのみです。 --『論語』公冶長第五・九節
- 回也聞一以知十、賜也聞一以知二。
- 同門の子貢(端木賜)の言。
- 孔子は答えて云った「顔回というものがいて、学を好みました。やつあたりせず、失敗は二度繰り返しませんでした。残念ながら若くして死にました。今はもうおりません。いまだ顔回ほど学を好むものを聞いたことはありません」。--『論語』雍也第六・二節
- 孔子對曰、有顏回者、好學。不遷怒、不貳過。不幸短命死矣。今也則亡。未聞好學者也。
- 孔子が云った「賢いな、回は。竹籠ひともりの食事にひょうたんいっぱいの水で路地裏住まいだ。他の人なら気がめいって耐えられないだろう。回はその生活をしながら学問という自らの楽しみを改めない。賢人だな、回は」--『論語』雍也第六・九節
- 子曰、賢哉回也。一簞食、一瓢飲、在陋巷。人不堪其憂、回也不改其樂。賢哉回也。
- 孔子が云った「何か話をしてやって、怠らずに精進していくのは、回だけかな」。--『論語』子罕第九・十九節
- 子曰、語之而不惰者、其回也與。
- 顏淵が死んだ。孔子はいった「ああ、天はわたしを滅ぼすつもりなのか。わたしはもうおしまいだ」。--『論語』先進第十一・八節
- 顏淵死。子曰、噫、天喪予。天喪予。
- 顏淵が死んだ。孔子は声をあげて泣き、ひどく嘆き悲しんだ。従者が云った「先生は取り乱しておられましたね」。孔子は云った「取り乱していたか。この人のために悲しむのでなければ、誰のために嘆こうか」--『論語』先進第十一・九節
- 顏淵死。子哭之慟。從者曰、子慟矣。曰、有慟乎。非夫人之爲慟、而誰爲。
注釈
編集- ↑ 没年を紀元前490年とする資料(『中国人名事典』ISBN 4-8169-1164-2、『中国神話・伝説大事典』ISBN 4-469-01261-0)もある。
- ↑ Yahoo!百科事典「顔回」