馬祖道一
唐の禅僧
ばそどういつ。中国、唐代の禅僧。六祖慧能(638年-713年)の弟子に当たる南岳懐譲(677年-744年)の弟子。
『江西馬祖道一禅師語録』
編集馬祖道一の語録。
- 迷に対して悟を説くに、本より既に迷の無ければ、悟もまた立たず。一切の衆生、無量劫より、法性三昧を出ず。長く法性三昧中に在り、着衣喫飯、言談して祇に対す。六根の運用、一切の施為、尽く法性たり。 … 汝等諸人、各々自心に達して、吾が語を記する莫かれ。
- 對迷説悟、本既無迷、悟亦不立。一切衆生、從無量劫來、不出法性三昧。長在法性三昧中、著衣喫飯、言談祇對。六根運用、一切施爲、盡是法性。 … 汝等諸人、各達自心、莫記吾語。 -- 「示衆」
- 迷いに対して悟りを説くのに、本より迷いが存在しないのならば、悟りも立てようがないではないか。一切の生きとし生けるものたちは、遥かな昔から、法性三昧の外に出ることがなかった。長い間、法性三昧の中にあって、服を着て飯を食い、話しをしたりといった具合いに生活をしてきたのだ。その、六根の運用、あらゆる行いが、ことごとく法性(=仏性)であったのだ。 … (会下の衆僧に対して)諸君、各自が自らの心に到達せよ、私の言葉を記録するな。
- 對迷説悟、本既無迷、悟亦不立。一切衆生、從無量劫來、不出法性三昧。長在法性三昧中、著衣喫飯、言談祇對。六根運用、一切施爲、盡是法性。 … 汝等諸人、各達自心、莫記吾語。 -- 「示衆」
- 若し直ちに其の道を会せんと欲すれば、平常心是れ道たり。何をか平常心と謂わん。造作なく、是非なく、取捨なく、断常なく、凡なく聖なきなり。(維摩)経に云う、凡夫行に非ず、聖賢行に非ず、是れ菩薩行なり、と。只だ如今の行住坐臥、応機接物、尽く是れ道たり。
- 若欲直會其道、平常心是道。何謂平常心。無造作、無是非、無取捨、無斷常、無凡無聖。經云、非凡夫行、非聖賢行、是菩薩行。只如今行住坐臥、應機接物、盡是道。 -- 「示衆」