高階貴子
平安時代の女流歌人。正三位
高階貴子(たかしなの きし / たかこ、生年不詳 - 996年(長徳2年))は平安時代の日本の女性宮廷人、歌人。女房三十六歌仙に数えられる。通称は高内侍(こうのないし)、または儀同三司母(ぎどうさんしのはは)。前者は女官名、後者は息子藤原伊周の自称(儀同三司、准大臣の漢名)による。円融朝に内侍として宮中に出仕し、漢才を愛でられ殿上の詩宴に招かれるほどであった。おなじ頃、中関白藤原道隆の妻となり、内大臣伊周・中納言隆家・僧都隆円の兄弟及び長女定子を含む三男四女を生んだ。夫の死後、息子たちが政争に破れ、996年伊周と隆家がそれぞれ流罪となると、貴子は同行を願ったが許されなかった。同年病没、四十代であったと推定されている。
引用
編集高階貴子の私家集は伝来していない。
- 忘れじのゆく末まではかたければ今日をかぎりのいのちともがな
- 『新古今和歌集』巻十三(恋歌三)巻頭歌、『小倉百人一首』収録。詞書「中関白かよひそめ侍りけるころ」。
- 夜のつる都のうちにこめられて子を恋ひつつもなきあかすかな
- 『詞花和歌集』『栄花物語』収録。詞書「帥前内大臣、明石に侍りける時、こひかなしみて病になりてよめる」。最晩年の作。