乃木希典

日本の軍人、教育者 (1849-1912)

乃木希典(のぎ まれすけ、1849年 - 1912年)は明治時代の日本の陸軍軍人。長州(現在の山口県)出身。漢詩を得意とした。明治天皇大葬にあわせて自刃。

乃木希典

情報源の確かなもの

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金州城外の作

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  • 山川草木轉荒涼
    十里風腥新戦場
    征馬不前人不語
    金州城外立斜陽
    長男戦死の際の歌

爾霊山

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  • 爾霊山険豈難攀
    男子功名期克艱
    鉄血覆山山形改
    万人斉仰爾霊山
    爾霊山は日露戦争の激戦地203高地の事。ここで散華した皇軍将兵たちを慰霊してその功を永く後世に伝えるため、戦闘終了後に「爾霊山」と名付けられた。次男の保典も、ここ爾霊山で戦死した。
  • 口語訳:爾霊山(にれいざん)がいかに堅牢であろうと、よじ登って攻略できないなどということがあろうか。男子が功名を立てるつもりならば、元より艱難を乗り越えることを期すものだ。(勇猛果敢な皇軍将兵たちは怯むことなく攻撃を繰り返し、)山には銃弾や砲弾が叩き込まれ、あるいは(将兵たちの)血で覆われて、すっかり山の形が変わってしまうほどであった。万人(ばんにん)斉(ひと)しく、(忠君愛国の勇士たちが散った、この)爾霊山を仰ぎ見ることであろう。

凱旋

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  • 皇師百萬征強虜
    野戰攻城屍作山
    愧我何顔看父老
    凱歌今日幾人還
    多大な犠牲を払って日露戦争の講和が成立した後の歌
  • 口語訳:皇軍100万人(通算の動員兵力あるいは誇張表現)は強大な異民族(ロシア)を征したが、野戦と攻城戦で(戦死した皇軍将兵の)屍が山を作(な)した。(私は強敵を打ち破った戦勝将軍であるが、その戦勝を誇るよりも)慙愧に堪えない。私は、一体どんな顔をして(戦死した皇軍将兵の)父兄に会えば良いのだろう。(戦勝を高らかに歌う)凱歌を口ずさんで(故郷へ)帰還できるのは、ただ一握りの者でしかないのだ。

辞世

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うつし世を神さりましし大君のみあとしたひて我はゆくなり
単純に訳すと「現世をお去りになった天皇のお後を慕い、私も逝きます」という意味。慕っていた明治天皇の崩御に伴い、大葬が終わった日の夜に後を追う形で夫人の静子と共に自刃して亡くなった。
元々日露戦争で息子を含めた多くの兵の命を徒らに失わせたことに対する自責の念があり、この頃から死んで詫びたいと言う意思があったと思われる。しかし明治天皇は乃木に対して「どうしても死ぬなら朕が死んだあとにせよ」と述べており、これが殉死を選んだ理由の一つであるとも考えられている。
 
Wikipedia
ウィキペディアにも乃木希典の記事があります。