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千利休

日本の戦国時代の商人、茶人

千利休 (1522年-1591年)編集

せんの りきゅう、織豊期の日本の茶人。旧名は宗易。本名千与四郎。本姓は田中、また納屋(なや)とも。

ほぼ確実に利休のものと考えられていることば編集

著書はなく、その茶語は門人の書物に伝わる。

山上宗二記編集

利休の高弟、山上宗二(やまのうえそうじ)が著した茶書。宗二自筆による諸本が10冊ほど残る。原本にタイトルはなく「茶器名物集」「珠光一紙目録」などとも呼ばれる。利休同時代の極めて信頼できる書。

  • 朝夕寄合いの間なりとも、道具の開き、または口切の儀は申すに及ばず、常の茶湯なりとも、路地へはいるから立つまで、一期に一度の参会の様に、亭主をしっ(執)して威(お)づべき

 (日常の付き合いある間柄であろうとも、茶道具のお披露目、または口切の茶会ではいうまでもなく、普段の茶会であっても、路地に入って出るまでは、一生に一度の茶会との心構えで、亭主の一挙一投足に注目し、亭主に敬意を払わなければならない)

  • 茶湯を身過ぎに仕る事、口惜しき次第
山上宗二記は、平凡社東洋文庫「日本の茶書1」、岩波文庫(2006年)などに収録。

南方録編集

利休の弟子、南坊宗啓が利休の語を記録した書を、立花実山が筆写したものというが、内容に疑わしい点もあり、今では虚実混交の(実山による)偽書とする説が有力。

  • 茶の湯とは、ただ湯をわかし茶をたてて、飲むばかりなるを本と知るべし。
南方録は淡交社『茶道古典全集』(1956)のほか、岩波文庫(1986年)に収録される。

辞世編集

1591年、利休は罪を得て、豊臣秀吉に死罪切腹を申し付けられた。

  • 利休めはとかく果報乃ものそかし菅丞相になるとおもへハ
『千利休由緒書』に見える狂歌。京を追放され堺に蟄居する際、同居の娘のお亀に残したと伝えられる。
  • 人生七十 力圍希咄 吾這寳劒 祖佛共殺 提ル我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛
    ※「圍」は、原文では「国構え=口」に「力」の字。
じんせいしちじゅう りきいきとつ わがこのほうけん そぶつともにころす ひっさぐるわがえぐそくのひとつたち いまこのときぞてんになげうつ
辞世の偈。