藤原忠平(ふじわら の ただひら、880年 - 949年)は平安時代の政治家であり歌人。摂政、のちに関白。諡は貞信公(ていしんこう)。『延喜格式』を完成させた。日記『貞信公記』が残る。
- 小倉山峰の紅葉ば心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ
- 拾遺和歌集、小倉百人一首所収。詞書「亭子院、大井河に御幸ありて、「行幸もありぬべき所なり」とおほせ給ふに、「事の由奏せむ」と申して」(宇多上皇(亭子院)が大井川に御幸され、(醍醐)天皇も行幸されてしかるべきところだと仰せになったので、では上皇のご意向を天皇に奏上いたしましょうと申し上げて)
- 朝廷より勅宣をいただいて、公用に参上する人を捉えるのは誰だ。離さなければやっつけてしまうぞ。--『大鏡』「太政大臣忠平」
- おほやけの勅宣うけたはまりて、さだめにまゐる人とらふるは何ものぞ。ゆるさずばあしかりなむ。[1]
- 紫宸殿に出た鬼を忠平が太刀を引き抜いて切ったという。
- ↑ 『大鏡』佐藤球校註、明治書院、1922年、p.52。国立国会図書館近代デジタルライブラリー、コマ番号31。2015年10月23日 (金) 04:35 (UTC)アクセス