徳大寺実定
平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人 (1139–1192)
徳大寺実定(とくだいじ さねさだ、1139年‐1192年)は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての藤原氏の公卿・歌人。右大臣・徳大寺公能の長男。官位は正二位・左大臣。後徳大寺左大臣(ごとくだいじの さだいじん)として知られる。母は藤原俊忠女。従って藤原俊成の甥、藤原定家の従兄弟にあたる。
引用
編集- ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞのこれる
- 『千載和歌集』『小倉百人一首』収録。
- をしへおくその言の葉を見るたびに又問ふかたのなきぞかなしき
- 『千載和歌集』収録。詞書「大炊御門の右大臣身まかりて後、かの記しおきて侍りける私記どもの侍りけるを見て、よみ侍りける」。
- 大炊御門の右大臣は父公能(1161年没)。私記は家日記ともいい、行事等について子孫への記録として残す漢文日記のこと。
- かぞふれば
八 とせ経 にけりあはれ我がしづみしことは昨日と思ふに- 『千載和歌集』収録。詞書「大納言辞し申して出で仕へず侍りける時、住吉の社の歌合とて人々よみ侍りけるに、述懐の歌とてよみ侍りける」、後注「そののち神感あるやうに夢想ありて、大納言にも還任して侍りけるとなむ」。
- 実定は1165年権大納言辞職、1177年に大納言に還任。当時は平氏と藤原氏が競合し、この影響で実定も12年の散位を余儀なくされた。