藤原定家

日本の平安~鎌倉時代の公家、歌人
藤原定家

藤原定家

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藤原定家は日本の歌人。藤原俊成は父。

藤原定家からの引用

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小倉百人一首はウィキソースを参照

和歌

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  • の夜のゆめのうき橋とだえして峰にわかるる横雲のそら
  • 見渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとまやのの夕暮
    • 西行の「さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮」、寂蓮の「心なき身にもあはれは知られけりしぎたつ澤の秋の夕ぐれ」と合わせて「三夕の歌(さんせきのうた)」と言われている。
  • ひとりぬる山鳥のをのしだりをに霜おきまよふ床の
  • 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりのの夕暮
  • こぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くやもしほの身もこがれつつ
  • 帰るさのものとや人のながむらん待つながらの有明の月

歌論

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  • やまとうたの道、浅きに似て深く、易きに似て難し。弁へ知る人またいくばくならず。
    • 『近代秀歌』
  • いはむや近き世の人は、ただ思ひ得たる風情を三十字に言ひ続けむことを先として、さらに姿詞の趣を知らず。
    • 『近代秀歌』
  • おろそかなる親の教へとては、「歌は広く見遠く聞く道にあらず。心より出でて自らさとるものなり」とばかりぞ申し侍りしかど、それをまことなりけりとまでたどり知ることも侍らず。
    • 『近代秀歌』

発言

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  • 紅旗征戎非吾事
    • 書き下し:紅旗征戎、吾が事にあらず。
    • 『明月記』治承4年(1180)記。白居易の詩句「紅旗破賊非吾事」に基づく。紅旗は皇帝旗、転じて朝廷を指す。治承4年は源頼朝挙兵の年。

藤原定家に関する引用

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  • 定家は、さうなきものなり。-- 後鳥羽院『後鳥羽院御口伝』
  • 定家は、生得の上手にてこそ、心なにとなけれども、うつくしくはいひ続けたれば、殊勝のものにてこそはあれ。-- 後鳥羽院『後鳥羽院御口伝』
  • 彼の卿がわが心に叶はぬをもて左右なく歌見知らずと定むる事も、偏執の義也(=定家が彼自身の好みに合わない歌を作る者をまったく歌を知らないと決めつけるのも、偏った考えである)-- 後鳥羽院『後鳥羽院御口伝』

外部リンク

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Wikipedia
ウィキペディアにも藤原定家の記事があります。