フリードリヒ・ニーチェ
ドイツの哲学者 (1844-1900)

フリードリヒ・ニーチェ(1844年〜1900年)
編集ドイツの哲学者。
出典を確認済のもの
編集『人間的な、あまりに人間的な』
編集Menschliches, Allzumenschliches,
- 人間の本性は純粋に論理的な本性に変え得るものだなんて信じることが出来るのは余りにもおめでたい人間に限っている[1]。
- 野卑な人間は自分が侮辱されたと思うと、侮辱の程度を出来るだけ大袈裟に考えて事件をひどく誇張した文句で話すのがおきまりだ[2]。
- 犯罪者に対して我々が犯す犯罪は、我々が彼らを悪党扱いにすることだ[3]。
- 見栄は心の皮膚である[4]。
- 大抵の人は余りに自分の事に没頭しているので悪意をもつ暇がない[5]。
- 人々は極度の興奮によって最も素晴らしい思いつきや暗示を得る事が出来ると思った。そこで人々は狂人を賢者や預言者として尊敬した。そこには間違った推論が根底になっている[6]。
- 大抵の思想家が拙いものを書くのは、自分の思想を我々に話すだけではすまさないで、その思想の考え方を一緒に話してしまうからだ[7]。
- 最も良き著者とは、著作家になるのを恥じる者のことであろう[8]。
- 生まれつきの精神的貴族というものは、あせり過ぎるということがない。
……「生産的な」人間というものの上に、もう一つ高い範疇の人間がいるのだ[9]。 - 性格の強い同じような個人から成る強力な団体にある危険は、代が重なることによって次第に度を増す愚昧化である。
……あのような団体に於ける精神的進歩は、比較的奔放な、ずっと不堅実な、そして精神的に弱い個人のおかげである。
……例えば戦争好きで活動的な種族のなかの病的な人間は独りで居る機会が多くそのために他の人々よりも静かで賢明になる機会も多いだろうと思う。
……してみるとあの有名な生存のための闘争というやつが個人や種族の進歩又は強化を説明し得る唯一の観点だとは私には思われない[10]。 - 誰でも自分の父親までの立派な先祖の連綿たる家系を当然自慢していい──しかし家系をというわけに行かぬ、なぜって家系なら誰でももっているからだ。立派な先祖の血統が正真正銘の貴族をつくるのである。この連続がたった一つ途切れても、だからつまり良くない先祖が一人あっても生粋の貴族ではなくなる。我々は自分の先祖について話す人毎にこう訊いてみるべきだ、──君の先祖には凶暴な貪欲な放蕩な邪悪な残酷な人間はひとりもいないか?と。もし彼がこれに対してはっきり、そして心安らかに否と答えることが出来るならば彼と友達になり給え[11]。
- 革命は確かに力の源泉であり得るとはいえ決して人間本性の整頓者、建築家、芸術家、完成者ではあり得ないということを、我々は歴史上の経験から知っている。──ヴォルテールの節度ある、整頓、純化、改築を好む天性ではなくてルソーの血迷ったたわけや嘘半分が楽天的な革命精神を喚び醒ましたのである[12]。
- 苦しみを共にすることではなく喜びを分かつことが友達をつくる[13]。
- 自分についてちっとも話さないのはとても上品な偽善である[14]。
- 見栄坊は偉くなりたいのではなくて自分を偉いと思いたいのだ。それだから彼は自分を欺いたり自分をぺてんにかけたりするためにはどんな手段をとることも厭わない。彼の心を占めるものは他人の意見ではなくて、他人の意見についての彼の意見である[15]。
- 才を求める者は才がないのだ[16]。
- 人間がけらけら高笑いする時はその卑悪さの点であらゆる動物を凌ぐ[17]。
- 我々についての他人の悪口はもともと我々をねらったものではなくてまるで他の原因から来た不平不満の表明にすぎない事がよくある[18]。
- 愛と憎しみは盲目ではない。しかしそれ自身がもっている火で目を眩まされる[19]。
- 自己満足という金羊の毛皮は棍棒には強いが針には弱い[20]。
- よく考える人は党人として適しない。彼の考えはすぐに党派をはみ出すからだ[21]。
- 怒りとか激しい情欲とかに駆られそうになっている者は容器が一杯になるように心が一杯になる或一点に達する。しかしまだもう一滴の水が、つまり熱情に対する善意が(世人はこれを普通悪意とも言っている)加わらねばならぬ。ただこのひと滴があればいいのだ、すると容器は溢れる[22]。
- 心の底で自分の権利に疑いをもっている者ほど自分の権利について熱情的に語る者はない[23]。
- 猜疑心の強い、競争者や隣人のどんな成功に対しても嫉妬を感じる、異説に対して乱暴で向腹を立てる不愉快な性格は、彼が昔の文化の段階に属していること従って一種の残存物であることを語っている。
……喜びをわかつことを好み、至る所で友達を得る、成長し生成する一切のものを豊かな愛を以て迎え、他人の全ての名誉や成功を共に楽しみ、そして真理を自分だけで認識するという特権を要求することなく一種の謙譲な懐疑を一杯もっているもう一つの性格、──これこそ人類のより高き文化に向かって努力するところの先駆者である。不愉快な性格は人間の交際のあらましの基礎がこれから造られねばならぬという時に生まれたものである。もう一つの性格は、地下室つまり文化の基礎に閉じ込められて暴れたり咆えたりしている野獣から出来るだけ遠ざかってその最上層で暮らしているのである[24]。
『悦ばしき知識』
編集Die fröhliche Wissenschaft
- 神は死んだ。神は死んだままだ。そしてわれわれが神を殺したのだ。--断章125節
- "Gott ist tot!! Gott bleibt tot! Und wir haben ihn getötet."
『アンチクリスト』
編集Der Antichrist
- この項は英語からの重訳です。
- キリスト教においては、どの点においても、道徳も宗教も現実と接触していない。--16節
- "Weder die Moral noch die Religion berührt sich im Christenthume mit irgend einem Punkte der Wirklichkeit."
- キリスト教はひとつの大いなる呪い、あるいは巨大な本質的堕落と私はいう。不都合に対しての執念という巨大な本能は、十分に有害で、かつ秘密に隠され、取るに足らない事である。これを私は人類のひとつの致命的汚点と言っている。 --62節.
- "Ich heisse das Christentum den Einen grossen Fluch, die Eine grosse innerlichste Verdorbenheit, den Einen grossen Instinkt der Rache, dem kein Mittel giftig, heimlich, unterirdisch, klein genug ist, — ich heisse es den Einen unsterblichen Schandfleck der Menschheit."
『善悪の彼岸』
編集Jenseits von Gut und Böse
- 怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。 --146節
- "Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird. Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein."
『ツァラトゥストラはかく語りき』
編集- 人の間に住するのは動物の間に住するよりも危險であることを私は知つた。
……私の動物は私の導者となれ![25] - 君の自己は君の「我」とその「我」の誇つてゐる飛躍を笑つてゐる[26]。
- 逃げよ、わが友、君の孤獨へ!
……森や岩は毅然として君と共に沈默することを知つてゐる。君は再び、君の愛してゐる・廣い枝の樹と均しくあれよ。その樹は無言で、聽き耳を立てて、海の上に立つてゐる[27]。 - わが智若しわれを棄つれば-嗚呼かれや、逃げ飛ばんことを好む-わが勇、冀くは、わが愚と興に天翔らんことを。--『如是經 (一名、光炎菩薩大師子吼經)』序品 (光炎菩薩 初轉法輪) 十[28]
そのほか
編集- ヨーロッパの二大麻薬、アルコールおよびキリスト教。
- "Two great European narcotics, alcohol and Christianity."
- 偶像の黄昏 2節『ドイツ人に欠けているもの』・反キリスト者 60節・詩 147節
ニーチェに帰せられるもの
編集出典を確認していないもの。
- つねに讃美されることを欲している神には、私は信仰をもてない。
- 英語から重訳。
- 愛の不足ではなく、友情の不足が不幸な結婚生活を作り出す。
- "Nicht der Mangel an Liebe, sondern der Mangel an Freundschaft macht die unglücklichsten Ehen."
- 結婚とは、長い会話だ。
- 最も偉大なこと、それは、計画をたてることだ。
- ヴァーグナーの芸術は病んでいる。
- "Wagners Kunst ist krank."
- どっちなんだ?人間が神の失敗作なのか、神が人間の失敗作なのか。
ニーチェに関する引用
編集- ニーチェは愚かで常軌を逸している。--レフ・トルストイ
- 彼その人は実に愛すべき人で、誠実の点では彼におよぶ者はありません。こんな人がキリスト教の最大の敵とならざるを得なかったということが、そのままキリスト教国の実状を物語るものであり、これこそ悲しむべき点です。--内村鑑三 (1917年3月6日 米国サラトガ D・Cベルにあてた手紙)
外部リンク
編集- ↑ 戸田三郎『人間的、餘りに人間的 上巻』岩波書店、1937年、60-61頁
- ↑ 戸田(1937年)94頁
- ↑ 戸田(1937年)95頁
- ↑ 戸田(1937年)104頁
- ↑ 戸田(1937年)104頁
- ↑ 戸田(1937年)149頁
- ↑ 戸田(1937年)203頁
- ↑ 戸田(1937年)204頁
- ↑ 戸田(1937年)214頁
- ↑ 戸田(1937年)234-235頁
- ↑ 戸田(1937年)371頁
- ↑ 戸田(1937年)375-376頁
- ↑ 戸田(1937年)402頁
- ↑ 戸田(1937年)403頁
- ↑ 戸田(1937年)413頁
- ↑ 戸田(1937年)414頁
- ↑ 戸田(1937年)415頁
- ↑ 戸田(1937年)417頁
- ↑ 戸田(1937年)418頁
- ↑ 戸田(1937年)419頁
- ↑ 戸田(1937年)422頁
- ↑ 戸田(1937年)423頁
- ↑ 戸田(1937年)429頁
- ↑ 戸田(1937年)437-438頁
- ↑ 登張竹風『如是説法ツァラトゥストラー』《超人と下品下生》、1935年、29頁
- ↑ 『如是説法』《侮身者》47頁
- ↑ 『如是説法』《市場の蠅》79頁
- ↑ 登張竹風『如是經 (序品)』1921年、248頁