源実朝
源実朝(1192年-1219年)編集
みなもと の さねとも。源實朝。鎌倉幕府の第三代征夷大将軍、和歌を藤原定家に学んだ。私家集『金槐和歌集』。
源実朝からの引用編集
『金槐和歌集』編集
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- あづまぢのせきもる神のたむけとて杉に矢たつる足柄の山
- 箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ
- おほ海の磯もとどろによする浪われてくだけてさけてちるかも
- 物いはぬ四方(よも)のけだものすらだにも哀れなるかな親の子を思ふ
- みわたせば雲居はるかに雪しろし富士の高嶺のあけぼのゝ空
小倉百人一首編集
- 世の中はつねにもがもななぎさこぐあまの小舟の綱手かなしも
- ちはやふる伊豆のおやまの玉椿八百万世も色は変わらじ
- 瑞垣のおおしききょうよりゆうだすきかけし心は神ぞ知るらむ
- 伊豆の國や山の南に出る湯の早きは神の印なりけり
- いでていなば主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春をわするな
- 『吾妻鏡』。結果的にこれが実朝の辞世となった。
源実朝に関する引用編集
- 正直に申し候へば万葉以来実朝以来一向に振ひ不申候。--正岡子規『歌よみに与ふる書』
- 強ち人丸・赤人の余唾を舐るでもなく、固より貫之、定家の糟粕をしやぶるでもなく、自己の本領屹然として山岳と高きを争ひ日月と光を競ふ処、実に畏るべく尊むべく、覚えず膝を屈するの思ひ有之候。--正岡子規『歌よみに与ふる書』
- 実朝の歌はただ器用といふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚びざる処、例の物数奇連中や死に歌よみの公卿たちととても同日には論じがたく、人間として立派な見識のある人間ならでは、実朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。--正岡子規『歌よみに与ふる書』
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